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「普通」じゃないのは、自由じゃない:『自分で名付ける』レビュー

例によって、めちゃくちゃ個人的な思い入れをこめた、長い前置きから始める。

結婚のメリットを結婚した人に尋ねると「弱ったときに誰かいてくれたら嬉しいじゃん」「家に帰ったとき誰かいてくれたら嬉しいじゃん」「ずっと独りだと思ったら怖くて」「孤独死はしたくない」等の返事がかえってくることがほとんどだが、それらの返答に1回も納得できたことがない。だって、一緒に暮らすってことがしたいなら、別に同棲でもできるじゃん。なんで役所に届け出なくちゃいけないのか。その人の親族や自分の親族にまで、「私たち一緒に生きていきます&この人以外と恋愛する自由を捨てます宣言」を、認めてもらわないといけないんだろう。

(ちなみに、結婚すれば孤独死しないかっていうとそうでもないと本で知った。「独身研究家」の荒川和久さんは、『「一人で生きる」が当たり前になる社会』という本の中で、「孤独死の問題については、よく考えてほしいんです。孤独死しているのは、ほぼ元既婚者なんですよ。高齢で孤独死している75歳以上の人たちを例に出すと、いま75歳以上の人たちは日本が皆婚時代といわれていて、ほぼ100%結婚していた時代の人たちなんです」と話されている。太字は原文ママ) 

…という話をすると、「考えすぎだよ~」「付き合ってるのって不安定だから怖いじゃん」「だから結婚できないんだよ~」「悪い方に転ぶことばっかり考えてたら、何にもできないよ!」と、また返ってくる。その人たちが自分で納得できているならそれはそれでいいしその生き方を否定するわけではないけれど、私としては疑問がいっぱいだ。

そもそも「結婚する」ってことが「通常状態」でみんながそこを目指すべきってのが前提になってて、そうじゃない人は異端扱いされてんのが(例:ずっと独身でいるのは人間的に問題があるから等と言われる)おかしくないか(再び、『「一人で生きる」が当たり前になる社会』によると、2040年には64歳までの既婚者は3割になると言われているそう、つまり実態としてはもう既婚者はマジョリティじゃなくなる、というのに)。「配偶者がいない=独り」って狭すぎないか?そもそも独りが不幸っていうのは万人に当てはまることじゃなくないことじゃなくない?「恋人っていう関係だったら別れてたかもしれないけど、もう結婚してるから別れない」っていうのは、本当に嬉しい・望ましい事態なの?「『未』婚」っていう「いつかは結婚する」のが前提の言葉、おかしくないか?(特に今の日本では同性婚が認められてなくて、そこに入ることを選ぶことができない人だっているのに。私は結婚式のブーケトスなる儀式(みんなが結婚を望んでいるという前提で成り立っている儀式)を火あぶりしたいと思ってるくらい憎んでいる。←だから、参加した結婚式のプログラムの中にそれがあっても絶対に参加しない。私の尊厳を譲り渡すことで人を祝うことになるとは思わないから)自分が誰とセックスするかを自由に選べなくなって(私の体の所有権は私にあるはずなのに、配偶者以外とセックスすると高額の「罰金」が取られ社会的地位を奪われることすら当然とされていて)、男女どっちかの姓に絶対合わせなくちゃいけない=どっちかはこれまでの姓を絶対に手放さなきゃいけなくって、でも片方が「性格の不一致だから結婚やめたいです」と言っても離婚は認められない(※)、つまり契約を切るハードルがおそろしく高い、そういう仕組みがロマンチックな糖衣にくるまれたとこだけで語られてんの、ほんと変じゃないか?

(※noteでは何度も書いているけれど、私の実家はTHE家父長制って感じで父以外の家族のメンバーはみんな父のモラハラにさらされて生きていた。就職して実家を出た私は、父の文句をずっと言い彼の事故死を常に望んでいる母を見るのが嫌で離婚を勧め、「でも、手続きを進めてるの相手にばれたらこわいし…子供たちがみんな独立するまでは動けないし…」と言う母の代わりに自治体の無料法律相談窓口みたいなところでどうやったら離婚は可能なのか、弁護士さんに聞いてみた。そしたら、片方が主張する性格の不一致だけでは離婚は難しい、と言われた。言葉の暴力の証拠を日記にしたりして集めたら離婚のための材料にできるかも、とも聞いて母にそれを勧めたけれど、父と口論しても毎回意見が潰されるばっかりだった母はもう「口答えしない」って生存戦略を採るようになっていて、本気で離婚の準備をすることはなかった。あきらめているように私には見えた)

勤め人だったときの、人員配置の仕組みと似ている、と思う。勤め先では、部署のメンバーがみんな120%働くってこと(=ポジティブな予測)を前提に部署の人数を決めている、と感じることばかりだった(だから、誰かが急な病気やケガで抜けてしまうとその穴を補うために他の誰かが160%くらい頑張らなきゃいけない、バッファがない)。結婚制度も、うまくいかなかった時どうするかは(意図的になのか)想像されてない。健やかなるときのことばっかり前提になってて、「病めるとき」のことは軽視されてる。特に契約者のうち片方だけが「この関係は病んでいる」と思った場合の可能性は。

もっとちゃんと、契約としての結婚のメリット・デメリットについて、私は知りたいんじゃよーーー!!

…と、ここ数年ずっと思っていて、情報を集めている(noteでも、何回もこういう疑問について書いてきた)。「結婚していないけど家族として生きている人たち」「一緒に暮らしているけれど、役所の書類上は家族だとは認められない人たち」が社会的に被るデメリットとは何か。

選択的夫婦別姓同性婚の議論を見つめる中で、やっと私が本当に知りたかった情報が少しずつ集まってきたのが、最近のこと。

ちなみに、「同性婚を求める同性カップルが、国を相手取り全国で一斉提訴した」件についてのオンライン署名の呼びかけで述べられていた内容を読んだことで、「社会の仕組み」としての結婚のメリット(※「安心だよ…」みたいな精神論ではなく)の内容が結構わかった。

そこで挙げられていた結婚できないと生じる困りごとの例:
・パートナーが亡くなったとき、結婚をしていなければ、遺言がない限り、どんなに長く一緒に生活していても、何も相続できません。
・パートナーが外国籍だった場合、異性間であれば、結婚することで、配偶者として、日本にいるための安定した在留資格を得られます。しかし、同性カップルは結婚ができないので、留学ビザや就労系のビザなど他の在留資格がない限り、日本で一緒に暮らすことさえ叶いません。
・パートナーが病気で意識不明になったとき、結婚していれば家族として様子を見守り、医師から話を聞くことができます。しかし、同性パートナーの場合には、「法律上の家族ではないから」と病院から拒否されることがあります。病室にすら入れてもらえないこともあるのです。
・パートナーが産んだ子どもをふたりで一緒に育てていても、産んでいない方は法律上はその子の親ではなく「赤の他人」とされてしまい、日常生活で不利になってしまうことがよくあります。また、産んだ方のパートナーに万一のことがあったら、もう一方は子どもと関われなくなってしまう可能性があります。

↑これらの内容は、change.orgの「日本でも同性婚を!だれもが『愛する人との結婚』を選べる社会にするために、私たちの訴訟を応援してください!」より引用したもの。ちなみに署名のタイトルについて私が思うところを書いておくと、異性の間では愛があろうとなかろうと結婚ができるので(例えば双方の経済的メリットのために形式上結婚してる人とかもいる)、同性婚についても愛があろうとなかろうと結婚できるようにならないと平等じゃないよね。

この本『自分で名付ける』も、「結婚せずに子供を産んだ人が経験したことが読める」ということで手に取った。私は、母ががんになって亡くなりそのあとの手続きをする過程で(も)、結婚制度の「不平等契約」な面をいよいよ嫌というほど見せつけられてきて、将来もし子供を持つとしても、できれば結婚せずにそうできたらいいなと思いつつあるので、先駆者の話を知りたかったのだ。(以下は私が以前ツイートした、「不平等契約」な面の例)

(あと母は、義母に嫌がらせをされていたので婚家のお墓に入りたくないと言っていたが、結局そうなってしまった。「うちは結婚してるけど、そんなにひどくないよ、もちろん故人の希望に合わせるよ」って思ってる方いるかもしれないけど、「自分が亡くなったときに実家のお墓に入りたい」と、結婚に伴い苗字を変えた方の人が思ったとき、それを「お願い」して相手が承諾しないと叶えられないってのが、もう既に平等ではないと思うんだよね。どこの墓に入るか?の選択肢が全然フラットに並んでない)

しかも著者は、ずっと気になっていた書き手の、松田青子さんだ。

もう予想通り、というか、予想以上に、松田さんのことが大好きだと思う内容だった。悔しい気持ちも怒りも、柔らかな笑いも全部入った本で、孤独に感じるこんな地獄みたいな世界でも、違和感を抱える仲間がいるんだ!嬉しい!!と勇気が出た。

そう、それ。松田さんはおかしいことにはちゃんとおかしいと言う人で、そこが好きだった。事実として、今の日本はあまりにも、女の人に何かを捨てさせること、「優しく世話好きであること」を「当たり前」に強いている。「女らしさ」「男らしさ」の型が窮屈だ。「普通」じゃない人が端っこに追いやられて、それが当たり前になっている。本の中で松田さんが指摘されていたことで、「ああ…たしかにおかしいよね…」ってやっと気づけたことは、たとえば以下のような内容。(以降、本文では字下げ改行している部分を、便宜上一行空けにしています)

この社会は、結婚すると女性側がそれまでの名前の半分を失うのを当たり前のことにしてきた。パスワードを忘れた時の「秘密の質問」に、「母親の旧姓は?」という項目が疑問をもたれずにいつまでも設定されていることだけでも、それがわかる。

(中略)

現状だと、日本の女性が結婚後も名字を変えたくなければ、相手や相手の家族から了承や理解を得なければならない。時には自分自身の家族からも。そして、もし受け入れてくれたとしたら、相手側は〝理解ある男性〟として、賞賛されたり、同情されたりする。 女性側は名字が変わっても、同情されることもないし、賞賛されることなんてあり得ない。それは当たり前のことだからだ。

(『自分で名付ける』より引用)
よく言われていることだが、子どもはごく小さな頃から、ジェンダーをすり込まれる。

名前を付けられる瞬間からそうだ。名前のバリエーションも多様になってはいるが、男の子は大、勇、などのたくましいイメージの感じが使われ、女の子は小、花など優しくて、かわいらしいイメージの感じが使われる傾向がある。大、という漢字のついた女の子の名前を私は見たことがない。もしあれば、見た人は、男の子の名前だと判断するか、変わった名前だと感じるだろう。また、小花、という名前の、男の子がいてもいいのにとも思う。
(『自分で名付ける』より引用)

これを読んで、小説をコンテストとかに出す場合にはペンネームとして「大子」を使おうかなと思った。別に大きくありたいわけではないが、小さくいろっていう圧力にむかついているから。(ペンネームとかラジオネームとか、「自分で自分に名付ける」行為は面白い)

(以下2つは、『最新!妊娠・出産新百科』という本の中身について)

今の日本の労働環境と社会は、妊婦や子どもがいる女性に優しくなく、働くこと自体を諦めざるを得ない女性がたくさんいるのはよく知られていることだけど、妊娠・出産の本に、「退職」の項目があることは果たして知られているだろうか。
(『自分で名付ける』より引用)
あと、私が衝撃を受けたのは、妊娠中の性生活についてのページだ。「セックスレスでも夫婦円満のコツ」という項目に「挿入はなくても手でしてあげる」と書かれているのに度肝を抜かれた。なんで妊娠中のしんどい時に、まだ何かを「してあげる」ことを求められるのか。「パパへの「ごめん」「ありがとう」を言葉で」とその横にあるのだが、いや、なんで妊婦側が言わなあかんねん、の気持ちでいっぱい。「パパができること」に、「ママの留守中などに自分で処理をする」と書かれているのにも、これ書かんといかんのかと遠い目になる。
(『自分で名付ける』より引用)

きつい…!

私自身の反省をこめての引用も一つ。

前から思っていたのだが、日本は、道を塞いだり、何かの”障害”になったりしている側を、無条件で”迷惑”だとするのが正当化されすぎているように思う。そっちが「普通」なので、様々な理由があって”障害”になっている人たちを軽視していいと思いやすいような気がする。
(『自分で名付ける』より引用)

お年寄りがゆっくり歩いているときとか、ベビーカーが止まっているとき、「通れないなー」とイライラしちゃうこと、私も時々ある。でも、悪いのって、大部分が「一人で速めに歩ける人用」に整えられている街であって、その人たちじゃないよね。怒る先が間違っていたね…と反省した。

あと、どうしても、出産と(自民党が大事にしてるような)旧来的家族像・女性像が結び付けられているね…っていうことについても、ため息をつきながら読んだ。以下は、松田さんが無痛分娩を受け付けている病院を探す過程での一節。

隣町にある、こちらも明らかに富裕層を狙ったえらく近代的なデザインの、高級ベッド、産後エステ、豪華な食事などを揃えた産院のホームページには、付き添いは「ご主人様のみ可能です」などと書かれていて、ここも値段どうこうの前に、「ご主人様のみ可能です」という、様々な可能性をはじいたワードチョイスに、なんか無理、とちょっと引いたりしていた。

(『自分で名付ける』より引用)

私は個人的にはよっぽどのことがない限り「お連れ合い」という言葉を使うことにしていて、「ご主人」「旦那さん」とは言わないようにしている。「ただの言葉じゃん」と思われるかもしれないけど、やっぱり意味が生じちゃうと思うから。瀧波ユカリさんが前に話されていた内容が、私の問題意識に近い。

「夫婦関係は本来フラットなもののはずです。交際中は「○○くん」「○○ちゃん」などと呼び合う対等な仲だったはずなのに、結婚すると「ご主人」「奥さん」になり、夫のほうが上だという雰囲気になってしまうのにはやはり違和感があります。呼び方によって関係性が見えにくくなってしまうんだ、言葉って大事だなと感じています。

 例えば、私が悩み相談の回答として「ご主人を尊重してあげてください」というと「主人はあなたよりも立場が上なんだから、尊重してあげてください」という意味に取られかねません。でも、「夫さんを尊重してあげてください」だったら、「一個人として尊重してあげてください」という意味が伝わると思います。

「瀧波ユカリ 私が『夫さん』と呼び始めた理由」より引用。

でも最近、こちら(↓)のツイートを読んで、「そうだよね…呼び方を変えるだけでは隠されちゃうところがあるかもしれないね…」とも思うようになった。「障害者」を「障がい者」と書くようにしたって、世の中が障害を持つ人に優しくなってはいない、って問題と近いだろうか。

(脱線するけど、社会と女性差別について考えるヒントをもっと得たいと思われている方は、このramonbookさんのツイートをぜひさかのぼって読んでみてほしい。めちゃくちゃめちゃくちゃ勉強になる…)

本の話に戻って、全体の中で一番胸に響いたのは、以下の部分。

(けそ注:出産から)一ヶ月経った頃、区の係の人が子どもの人と私の様子を確認しに家に来た。

五十代くらいの快活な女性で、子どもの人の検査が終わった後、私の母が別室にいる時に、「お一人で育ててるんですよね?」と聞かれた。「あ、違います、結婚していないだけです」と言うと、「なんでなのか理由を聞いてもいい?」と尋ねられたので、「名字が変わるのが嫌なんです」と答えた。彼女は、「え、本当に、それだけで!?」と驚いていた。そして、Xというこだわりの強い人がいるので(けそ注:Xさんは松田さんの「結婚はしていないけど位置づけ的には夫にあたる人」)我が家はまだ家具が少ないのだが、リビングを見回した彼女は、ソファーとか棚とかないね、と不思議そうにした後、笑いながら、「なんかこの家、自由だね~」と言って帰っていった。

彼女に対して嫌な感じは一切受けず、むしろ楽しい時間だったが、でも、私は自由に生きているつもりはなくて、いろいろ窮屈に感じていることのほうが多いし、真面目に生きている。制度や「普通」の枠におさまっていないから自由、というのはちょっと違うように思う。

自分の、名字を変えたくない、という気持ちを尊重するためには、「普通」を諦めるしかないのが現状だ。制度のほうが、「普通」の枠を広げたらいいやないか、そっちの「普通」が狭いくせに、こっちにドヤ顔してくんなよ、という気持ちでいつもいるし、同性婚など、他のいろいろなケースにもこれが当てはまる。

(『自分で名付ける』より引用。太字は私(けそ)によるもの)

社会の『普通』に疑問を抱いてその思いについて周囲に話すと、たいてい言われるのが「面倒くさいね」「考えすぎ」って感想。今の恋人と付き合う前、「なんで恋人って『契約関係』みたいにあらねばならないんだろう?」という疑問について相手と話し合って、しばらく「両想いの友達」という関係でいることにしていたのだけど、そのことを周りに説明したときも、たくさん言われた。結局毎回説明するのが嫌になってしまったのと、私の方が関係にはっきり名前がつけられたほうが安心な気がしてきてしまって、「付き合う」に移行したんだけど、それによって安心してしまう自分にももやもやした。『結婚の奴』の能町みね子さんの言葉、「どんどんみんな『常識』に吸い込まれていく。世間の『常識』の強さをなめたらいかん」を思い出す。

自分がアイデンティティを守りたいと思ってすること、疑問に思って『普通』に飛び込まないでいることを、他者に簡単にまとめられたくない。「自由」だとか「面倒」だとかって言葉で。

『普通』にはまらないことは大変なことだけど、そうすることで守りたいものがあるから、そっちを選ぶのだ。(自分が望んでないのに、勝手に『普通じゃない』にされてる人もいるよね。それはますます残酷だと思う)
しんどいときは松田さんみたいな他の実践者の人の戦いをちらりと見せてもらいながら、生き延びていきたいと思う。

その他、断片的に印象的に残ったところ。

・子供の名前について。トランスジェンダーの人がたくさん出てくるドラマ『POSE』を観たりしたこともあって、「性別らしさをはっきり反映してる名前を子供につけるのは嫌だなあ。自分が女とか男とかどっちでもないとかっていうのを決めるのはその子だものなあ」という風にもともとぼんやり考えていたんだけど、「いや、でも逆に中性的な名前をつけられた子供が『もっと女らしい/男らしい名前がよかった!』って思うかもしれないよな」と最近思い始めた。松田さんは本の中で、「自分で自分に名前を付けるのでもない限り、名前を付けるという行為は付けられた側からしたら負担になることもあり、Xと私が付けた名前を将来O(けそ注:松田さんのお子さん)が気にいらないということも当然あり得るので、Oも大人になって自分の名前が嫌だったら、好きなように変えてほしい」と書かれていた。子供の人生をしっかりその人のものだと思ってる親である松田さん、ほんとにLOVE…!

※ちょっと脱線するけど。性別欄の「どちらでもない」っていうのにしっくりくる人がいることについては、ぺス山ポピーさんの『女(じぶん)の体をゆるすまで』というマンガを試し読みして知った。

・前に、誰も入っていないからと多機能トイレを使おうとしてる友達に「それはよろしくないのでは…」、と話したところ「なんでだめなの?」と言われてうまく説明できなかったんだけど、この本で優先席について書かれていることを読んで、これからは説明できるような気がした。

席が必要な人が来たら立つからそれまでは座っていてもいいじゃないかという意見も、優先座席が空いていない問題が話題になるたびに目にするのだが、めちゃくちゃ空いている電車ならそれでもいいのだけど、そうじゃない場合はやっぱり空けておいたほうがいいように思う。なぜなら、その人の”不調”を見分けることができない場合もあるし、やはりはじめから席が空いていないと、諦めてしまう人も多いはずだ。

(『自分で名付ける』より引用)

もし誰かが入っていたら、待つんじゃなくて「入るのを諦めちゃう人」がいるかもしれないから、使うべきじゃない、と思う。もし諦めちゃった人がいても、中に入ってる間はそれを知ることができないしね…。トイレを我慢できないお子さんがいたとき、すぐに入れる場所を空けておくことにも意味があると思うし(まあこれは、列に並んでる人も譲ってくれることが多いケースではあるけど、そうじゃないこともあるから←なんてことだ!)。

優先席について松田さんは、「優先座席を必要としている人に席を譲れないくらい疲弊してしまうのが『普通』の仕事ならば、それはやはりそれを『普通』にしている社会構造がおかしいだろう」とも書かれていて、ここにも全面的に同意。(ちなみに私は、妊婦さんかどうかを察知する能力が極端に低い。相手がどれくらいの年齢の人かを推し量るのも。だから最近はよっぽど空いてるときじゃないと電車で席に座りたくないのである…スマートに席を譲るのが下手だから…)

Twitterでも書いたんだけど、「恋のから騒ぎ」のオープニング曲のMVがこんなに面白いの知らなかった。

(当記事のトップの画像は、『嵐が丘』のイメージでお借りしたもの)
あんまりこの記事では触れられなかったが、このMVのようにめちゃくちゃ笑える部分が多い本だ、『自分で名付ける』。

私は、ベビーカーでカルディに入るなんておかしい、という言説に、めちゃくちゃびっくりし、嘘だろ、といたたまれない気持ちになった。

なぜなら、私はそれまで全然気にせずカルディにベビーカーで入りまくっていたからだ。むしろ、こんなに狭いのに入ってやっているんだ、見ろ、この華麗なベビーカーさばきを、くらいの気持ちだった。

(『自分で名付ける』より引用)

↑このあたりとか、松田さんの愉快さが存分につまっていて好き。

ということで、すんごくおすすめの一冊ですわい!!

あ、今回の内容に関連する作品(これからチェックしたいと思ってるもの含む)も貼っておく。

本『愛と家族を探して』

人生のところどころで思い出す本というのは何冊かあるけれど、間違いなくこの本もその一冊。いろんな家族の形を、それぞれの形を選んだ人たちにインタビューしてできている本。恋愛はしたくないけど子供がほしかったから精子バンクを利用して出産した人や、性的パートナーと一緒に暮らす人を分けている人、血縁関係にはない他人にも大々的に呼びかけて子育てした人(に育てられた子どもの人)の話などが読める。

恋愛関係じゃなくても家族のように暮らしている人の体験談は、もっと世の中に多くなるといいと思う。恋愛として好きというのと、生活するパートナーとして相性がいいということは必ずしも一致するとは限らないし(今(配信で)観ているドラマ『最高の離婚』でもそういう話がされている)、恋愛を必要としない人もいるのだし。

現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在-変わりゆく親密さのかたち-

こちらも、これから読みたいもの。まだ発売前(2021年8月27日発売)だけど、(出版元の)青土社の紹介文を読んでいるだけで、めーっちゃ楽しみ!

「恋愛」はいま、どうなっているのか――恋愛研究の最前線
ライフコースの多様化を背景に、必ずしも結婚を中心としない視座から恋愛を捉える重要性が増しつつある。しかし同時にこの「恋愛」という概念自体もまた、根本的な問い直しを迫られているのではないだろうか。本特集ではポリアモリーアセクシュアル/アロマンティックを含め、異性愛中心的な「恋愛」の規範が排除してきたさまざまなありように目を向けつつ、その「現在」を多角的に検討したい。

【目次】

特集*〈恋愛〉の現在――変わりゆく親密さのかたち​

【討議】
これからの恋愛の社会学のために / 高橋幸+永田夏来

【エッセイ】
もう誰かと恋愛することはないと思うけれど――〝恋愛以外〟のことで考えてみる「恋愛とは何か」問題 / 清田隆之
恋を語る言葉 / 石井ゆかり

【何が語られてこなかったのか】
恋愛からの疎外、恋愛への疎外――同性愛者の問題経験にみるもう一つの生きづらさ / 島袋海理
恋愛的/性的惹かれをめぐる語りにくさの多層性――「男」「女」を自認しない人々の語りを中心に / 武内今日子
ポリアモリーという性愛と文化――愛をいかに自由に実践するか / 深海菊絵
クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない! / 中村香住
アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向――仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から / 松浦優

【〈ありふれた物語〉のゆくえ】
一九八〇年代、『non-no』の恋愛文化――現在を対象化するために / 木村絵里子
ロマンティックラブ・イデオロギーというゾンビ / 谷本奈穂
「愛─性─結婚」の現在地――子どもによって繋ぎ止められる日本のカップル / 大森美佐
「逃げ恥」に観るポストフェミニズムーー結婚/コンフルエント・ラブ/パートナーシップという幻想 / 菊地夏野

【そこでは何が起こっているのか】
ゴースティング試論――CMC空間の恋愛をめぐる一考察 / 中森弘樹
メンヘラ少女たちのオートセオリーのために / 菊池美名子
不安定な自己を叙述する――異性愛関係に引き寄せられる男性のライフストーリー分析 / 西井開
「家父長制ボイコット」としての非恋愛――韓国社会の変化と若者の恋愛 / 柳采延

【描き出され、読み解かれるもの】
二一世紀のラブソングーー現代日本ポップソングの恋愛表象についての一考察 / 中條千晴
映像メディアにおける同性愛表象の現在 / 河野真理江
恋愛を「みせる」こと――恋愛リアリティショーにおけるカップル主義のゆくえ / 田島悠来
ブコメの倫理と資本主義の精神 / 日高利泰

【未完の〈恋愛論〉】
ジェンダー平等な恋愛に向けて――大澤真幸の言う「恋愛」はなぜ「不可能」なのかの考察から / 高橋幸

青土社Webサイトの紹介ページより引用

ドラマ『獣になれない私たち』

野木亜希子さん脚本作品では『逃げ恥』が一番有名だと思うけど、私はこちらの作品のほうが実は好き。もっと生き方が開かれてると感じるから。

特に主人公の晶(気が利いて優しくていつも笑顔で明るくてバリバリ仕事ができるけど、いつも「いい子」でいなきゃいけないように感じていて、ちょっとしんどい気持ちを抱えている)と、朱里(劣等感を持っていて社会に出るのが恐ろしくなり、長年引きこもってゲームばかりしていた)の会話シーンで大好きなところがある。ちょっとずつ人と繋がって会話して、それも一人じゃないんじゃないか、恋愛だけが人と一緒に生きる方法じゃないんじゃないか、と晶が思いの丈を述べるシーン。