ボカロPとしての名義はハチ

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夏のフィンランドの保育園は"多様性"にあふれていた  ■宮脇咲良

「ねぇ!ねぇ!ねぇ!
 あの人だれ!?
 なんでいるの?
 名前は!?」

ある日私が出勤すると
目をキラキラさせた
女子3人が走ってきた

 




私の服や腕を引っ張り
部屋の隅へ連れて行き
目をキラキラさせて
ヒソヒソと
興奮する声を
一生懸命抑えながら
見つめる先にいるのは

見慣れない
20歳前後の
男の人だった

ここは
中学校でも
オフィスでもない

フィンランド
幼稚園

フィンランドの夏の保育園は
急にクラスにイケメンが現れたり
園庭にピエロが現れたり
不思議な場所だった

フィンランドの夏休み

フィンランドの幼稚園は
6月には夏休みに入る

ほとんどの園は
修了式兼卒園式のような
イベントを終えると
8月の頭まで
約2ヶ月の長い夏休みに入るのだ

こんなに長い夏休みを
共働きが基本の
保護者たちはどう
やりくりしているのか?

と、聞いてみると
大体親も1ヶ月くらい
休みがあるので
ずらして休みを取ったり
実家に頼ったり
周りの子育て家庭と
協力しあったりして
過ごしているそうだ

それでも都合がつかない家庭も
もちろんあるので

私が住んでいた町では
地域で一番大きな保育園だけ開けて
そこに地域の他の保育園も集結させる
合同保育園を開いていた

私は夏休み期間中
その合同保育園に
勤務することになったのだ


日本でもお盆時期や年末年始に
こうした合同保育をする
場所もあるそうだが
私は経験したことがなかったので
この空気感が初めてだった


とにかく不思議な空間なのだ

一期一会の保育園

先生たちもこの期間に
交代で夏休みを取るので

休暇でいなくなる人
休暇明けで初めましての人

毎週月曜日は大人も子どもも
半分くらいのメンバーが入れ替わっていた

子ども同士でも
一緒に遊んでいた子が
休みに入ったら
また別の友達と遊ぶし
夏休み明けに
急に保育園に来ても
誰か友達を見つけて
普通に遊び始める

自分のいつも通っている
保育園ではないのに
仲良しの子がいるとは
限らないのに
不安そうにする子どもが
いないことに驚いた

泣く子もいなかった

園庭では
色々な園の先生が集まって
子どもを見ながら
世間話をしたり
情報交換をしていた

私も園庭にいると
子どもと遊ぶより
先生たちと話すことが多かった

もちろん、子どもに誘われたら
遊んだりするが
基本的に大人と遊ぶことより
子ども同士で遊ぶことを学ぶ場所
という意識が強いので
ほぼ見守りなのだ

いい季節だよね
うちの庭でベリー取れたのよ
あ! 食べる? 
明日持ってこようか?
と、庭で採れたベリーをくれたり

ケーキの美味しいカフェを教えてくれたり

地域の情報も色々教えてくれた

お礼に家で折り紙を
折って持って行くと
もう休暇に入っていて
いない
なんてことも多かった

まさに一期一会の場だった

とにかく
みんながその場にいることを
受け入れていて
のんびり、穏やかに
過ごしている

保育園なのに
私の知っている保育園の
イメージとは違った

色々な人がいる保育園


そんなある週明けの月曜日
所属の保育室に入ると
いつもの のんびりとした
雰囲気とは違った

「ねぇ!!! あの人誰!?」
とキャッキャした女子が
腕や服を引っ張り
突撃してきた

浮き足立っている

そんな雰囲気だ

その視線の先には
優しそうな雰囲気の
20歳前後の男の人がいた
ちょっとイケメン

少し小さな子ども用の椅子に
座って、男の子たちと
レゴをしていたのだ

「え? 誰だろ? 私も知らない」
「今日このクラスにいるのかな?」
「いつまでいるのかな? 
 ごはん食べるのかな?」
「自分で聞いてこれば?」
「恥ずかしい!!! 聞いてきてよ!」
「じゃあ一緒に聞きに行く?」
「ムリムリー!!」


なにこのやりとり

懐かしー

日本の保育園で働いていた時も
若い男の保育実習生がやってくると
同じようにおませ女子たちが
キラキラした空気を出すのだ

フィンランドで暮らす彼女たちも
しゃべる言語は違っても

一緒だな〜
と思わず笑ってしまった


日本と全然違うと思った
夏の保育園も
同じだなと思うところも
いっぱいある

子どもが少なくて
人手が余っていたら
絵本を修理したり
書類仕事に抜けたり
おませさん女子がいたり


日本と違うところ
日本と同じところ

色々見つけて面白い

でも彼がこの園にいた
理由は日本にはないものだった


彼はボランティアとして
園に来ていたのだ

どんなボランティアなのか
聞いてみると
フィンランドでは
18歳以上の男性には
兵役義務がある

しかし、何らかの理由で
兵役免除を受けたい人は
図書館や高齢者施設
また、こうした保育園などで
奉仕活動をするそうだ

彼はその奉仕活動として
保育園にやってきた人だという

またある日は
言語聴覚士の人がやってきたり
ラヒホイタヤという保健師さんに
近いような役割の人がきたり
海外からの視察の人がきたりと

とにかく外部からも
色々な人がやってきた

先生も色々な人がいた

園庭でハーモニカを吹き出す
スナフキンのような
男性保育士もいたし

女性か男性かわからない人もいた

髪をケープで覆う先生もいた

肌の色が違う先生や子どもは
珍しくもなんともない

ピエロの格好をして
シャボン玉を吹く
先生もいた

何かイベント日なのか?
と聞いてみたら
自分も夏休み明けで
急に仕事モードになれないから
自分の楽しいことをして
モチベーションを
徐々にあげていくんだと言った

そんなのありなのか!?
と驚いた

毎年この時期になると
この不思議な保育園での
体験を思い出す

保育園には色々な大人がいて
子どもたちも色々な友達と遊んで
大人も色々な人と交流する


子どもに多様であることを教えるより
こうやって色々な人がいることが
当たり前の環境で
色々な人と自然と
コミュニケーションを
とっていける

用意された機会だけでなく
自然にそんな機会が
たくさんあれば
いいな

と思った

”多様性”
と言われると
なんだか難しく考えてしまうけど

みんながそこにいることを
受け入れて受け入れられて
みんなが安心していられる
この夏のフィンランド
保育園のような場所が
”多様”と言われるもの
なのかもしれない

「井出ってさ、ナイフ持ち歩いてんの?」
「中学の時から持ってたよ」

それがたぶん、Sとの高校での最初の会話だったと思う。高校2年でクラス替えがあった直後だった。Sと同じ中学出身で別の高校に行った井出(仮名)という男が危ない奴で、普段からナイフを懐に忍ばせては近隣のヤンチャな奴らを狙っているという噂だった。今から思うと、どんな奴なんだ、井出(仮名)、少年サンデーから飛び出してきたみたいな奴だな、井出(仮名)。

高校生男子は、ナイフが好きだ。そして、わけのわからん危険な男の話が好きだ。Sとはそれ以来話すようになり、仲良くなった。しばらくして、アブない井出くん(仮名)は何か全然違う理由で高校を退学になったと風の噂で聞いた。

高校を卒業してからも、一緒に東京に出たSとはしょっちゅう飲みにいっていた。遊ぶ場所はSの大学の近くの国分寺が多くて、そこらへんの何が入ってるのかよくわからない安酒を出す店で泥酔し、Sの家に何度も泊めてもらった。Sは国分寺のその先にある西武線の支線沿線に住んでいて、単線の駅を降りると広がるその荒涼とした墓場のようなロードサイドの景色は、故郷の国道沿いを思い起こさせた。

Sとは、大学を卒業してからは疎遠になった。私の仕事が忙しかったのもあるのだが、仕事をして数年経つと、Sが東京からいなくなってしまったからだ。Sは実家に帰った彼女を追って東海方面に行ってしまい、その地方で結婚をした。逆のパターンは聞いたことがあるが、女の実家まで追っていく執念は聞いたことがなかった。それだけ惚れていたんだろう。向こうの親御さんの困惑を考えると、今でも笑えてくる。それでも、Sは幸せそうだった。子供がめちゃくちゃかわいくてさ。そう言って送ってくれた子供の写真が、Googleフォトのどこかに残っているはずだ。子供は他人の私から見たら、普通だった。

それから10年以上が過ぎる。その間、ほとんど連絡は取らなかった。私は私で仕事とジェフユナイテッド千葉の昇格に時間を取られていたし、Sは子育て真っ盛りで自分の時間などないに等しかったろう。時々、地元の共通の友だちと話して名前が出てきて、あの頃やっていた馬鹿を思い出すくらいだった。

今年の6月になって、そのSから急に連絡が来た。Facebookだ。Facebookは登録だけして、滅多に開かない。しかし、時折こういう過去の亡霊から肩を叩かれて、どきっと後ろを振り返ることがある。

「見つけた、元気か?」

10年以上ぶりのメッセージには前置きがあった。思えば、Sはいつも前置きがなかった。東京で初めてクラブに踊りに行こうと誘われた時も急に思いついたように言われたし、嫁さんの実家に旅立ったときも、連絡を受けたのは彼がすでに東京からいなくなった後だった。大人になったんだな、と思った。

友人申請を承認し、何度かやり取りをした。しょーもない言葉の応酬に、学生時代にまだLINEがなかったころの連絡を思い出した。おじさんたちはこういう連絡を携帯メールでしていたのですよ。やり取りをしながら、そういえば子供だいぶでかくなってるよな、写真とか載せてるのかな、とホームを見にいった。

そこは、反ワクチンと陰謀論の大量のシェアで溢れていた。

画面を見た瞬間に、ぐう、と俺は変な声を出していた。投稿のメインは反ワクチンだった。まさにそれは怒涛というのに相応しい頻度で投稿されている。ほとんどが誰かのコンテンツのシェアだったが、それぞれに「本当に大事なこと」「コロナ対策なんて金の無駄」「常識を疑え」などと一言ずつ添えられていて、それに対して賛同のいいねが多数(と言っても、20とか30程度だが)つくという状態だった。その反ワクチン乱舞の合間に陰謀論とデマが定期的に挟まれるのだ。ケージ飼いのニワトリの卵は健康に悪い、ロスチャイルド家が日本を支配する、日本の小麦はすべて遺伝子操作、などなど、規模もソース元もぐちゃぐちゃな投稿が何の脈絡もなく挿入される。

そして、選挙が始まった。ある特定の政党をSは熱烈に支持し、その投稿でFacebookは破裂しそうだった。そもそも投稿するような友人が少ない中で、Sだけが活発に動いてるため、私のFacebookはほとんどS専用のメッセージボードと化してしまった。俺はただただ特定政党の選挙演説動画が垂れ流しにされる画面を見ながら、こんな顔をしていた。

画像

色々な思いが頭をよぎった。元々、政治に興味なんてあるやつじゃなかった。かわいい女の子とイカした音楽と意味のほとんどないサブカル的文章が好きで、ゆらゆら帝国はSから教えてもらって、俺は今でも好きなバンドだ。政治のことなんてほとんど話したことなかったんじゃないだろうか。大学時代なんて、その時の首相の名前さえあやふやだったはずだ。

ただ、昔から陰謀論的なことは好きだった。『ムー』が部屋の中に何冊も積み重なっていたことを覚えている。遊びに行ったときに「ナイジェリアで5メートルの人間の化石が発掘」などのムー的事件簿を見てゲラゲラ笑っていた。Sも少しも信じてなかったし、一緒になって笑っていた。しかし、今思えばその態度も表面的なものだったのかもしれない。どこかで信じていた可能性だってある。ムー的なものを。

だからと言って、一足飛びに反ワクチン陰謀論連複買いするほどではなかったはずだ。一体、この10年でSに何があったのだろうか? Facebookをいくら遡っても、あれほど溺愛していた子供の写真はなかった。そして、惚れ込んで相手の実家まで追いかけた嫁とのエピソードは1つもなかった。離婚はしてないようだが、家族とはうまくいってないのだろうか。仕事の話も全く出てこない。冷や飯を食わされながらも田舎で他に就職先もなく、家族のためにストレスを抱えながら仕事をしているのだろうか。それとも、何か他にあったのか。病気か、失恋か、天の啓示か、あるいは……。

全ては推測でしかない。このどれもが外れてるのかもしれないし、全部が少しずつ当てはまってるのかもしれない。でも、もう理由を聞くことはできない。Sの支持政党についていくつかメッセージで意見を聞かれ、「よくわからんなー、政治は。笑」と答えていたら、連絡は来なくなったからだ。それに、メッセージが届き続けたとしても、これ以上、私は踏み込むことはできない。責任をもって救う覚悟がないならば、迂闊に手を出すことは大人のすることではないからだ。10年という時が経ち、東京から東海地方という距離があるならば、なおさら。たとえ、旧友が客観的に見てかなりおかしくなっていたとしても、だ。

Sと会うことはたぶんもうない。Sが東京に来ることはないだろうし、私があっちに行くこともない。地元も少し離れた場所にあるので、そっちで会う可能性もないだろう。高校の同窓会も随分開かれていないし、行ったこともない。Sは私たちの世界の彼方に消えてしまった。他にも向こう側に行ってしまった友達や親戚たちがいる。大人である彼らに対して、できることはない。それは悲しいことだけれど、そうするしかない。

ただ、思い出は思い出として、そのまま残していたい。いくら人が変わろうとも、時代が変わろうとも、よかった時の記憶を悪くすることもないだろう。その後に付き合いがなくなり、たとえ今が人生うまくいってなくても、それでもその過去の一瞬だけは、私とSは仲の良い友人であったはずだし、向こうにとってもそうであったことを願いたい。

井の頭公園でSも含めた4人で飲んでいたら、近くにいたにーちゃんに因縁をつけられて、4対1なら大丈夫だろうと思っていたら、実はそのにーちゃんはサークルを引き連れていて、10人くらいが集まってきて慌てて走って逃げたこともある。Sが北海道まで東京から自転車で行くと言って、二日目の埼玉で「もう帰りたい」という電話を受けたこともある。思い出すのはそんなことばかりだ。

押入れを掃除していたら、Sとインドに行ったときに撮った写真を見つけた。ガンジス川の船の上で最高にいい笑顔でポーズを取っている私とSが映っている(※)。そう、我々にはこういう時代があった。若くて、浅はかで、バカだったが、とても良い時代だった。その記憶は、冷凍保存される。それは消えることも、変わることもない。

※なお、この後めちゃくちゃ船乗りにぼったくられた。