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ニワトリしか飼ったことのない私が保護犬に出会って初めて抱いた「感情」  ■宮脇咲良

今までペットといえばニワトリしか飼ったことのなかった長濱ねるが、最近一緒に暮らし始めたワンちゃんについてお伝えします。動物の世話など自分にできるはずがないと、犬を飼う人生を想定していなかったのですが、結婚して1年が経つ頃、妻・宮脇咲良の影響で心が動き出しました。家族が増え、新しい生活をスタートした私が感じたこととは。

 

小型犬を飼うのはセレブのステイタスかと思ってた

自分にはまだまだ感じたことのない、メガドン級の感情が眠っているのだと知った。しかも、それは何やら人類が盛んに叫んでいる「愛」かもしれないのだ。

異性愛、恋心、とはまるで違う。無償の愛というやつなのか、「ペット」という言葉には、人間の生活のお味噌程度のニュアンスがあるが、間違いなく、生活の中心だ。

元々、寝がけに犬猫動画を見るのが好きだったが、どちらかといえば猫派で、しかもサボテンさえ枯らす私には、動物のお世話などできるはずがないと、犬を飼う人生を想定していなかった。とはいえ、憧れはチベタン・マスティフかサモエドを飼うことでもあった。

この施策は目標を上回り、ソーラーパネルの価格を下げ、州の電力に占める太陽光発電の割合を増加させた。さらに、電力会社に電力の一部を再生可能エネルギーから購入することを義務付けるなどの施策により、現在では州内の電力の15%を太陽光発電が占めるまでになった。

マスティフ

東京で小型犬を飼う人に対する固定観念があったのは事実だ。セレブ、芸能人のステイタスのようにうつっていたのだ。特にトイプードルには、そのイメージが強く、毛が抜けにくい、マンションでも飼いやすいなどという人間の都合という業を煮詰めたような謳い文句をなかなか受け入れることができなかった。

それに、自分がかわいいことをわかっているようなクリクリとしたお目目で首を傾げられると、自分がなんとも薄汚れた存在に思えて直視できなかった。

「飼うならぜったいトイプードルだよね」

私が飼ったことのあるペットといえば、お祭りで買ったにわとりのみ。しかも、そいつは小屋を開放すれば、最大限の跳躍力を用いて人間の後頭部を突くというクセを持っていた。全く懐く気配はなく、私たち家族はたまに産んだ卵を、その攻撃をかいくぐってご相伴にあずかるという形だ。ペットというよりは、家畜。

私にとってのペット観は、このように培われているので、犬がそんなにも大切な存在であるということが頭では理解できても、心ではわかっていなかった

ところがどっこい。パートナーのつーたんは、18歳のときからトイプードルを飼っていて、その子に会いに実家に帰るほどの愛犬家である。

「飼うなら絶対トイプードルだよね」ある日突然、犬を飼う話なんてしてもいないのにつーたんが呟いた。引っ越し先の物件を見ているときにも、「ここはペット可かぁ」などなど、今思えば、彼は飼う気に満ち溢れていたのだ。

自然と洗脳されていたのか。私もラジオで愛犬家の方をゲストにお迎えして、お話を聞くコーナーをやっていたことで、結婚して1年程経つ頃には犬を飼うっていいなぁと心が動きだした

犬と人が共に幸せになれる

いろいろと知るまで、私が思い描く動物愛護の行き着く先は、ムツゴロウ王国だった。野生に近い状態の環境に放つことこそが本当の動物愛護だと思っていた節があった。とはいえ、ムツゴロウ王国がどのような環境なのかを明確には知らないけれど。ただ、SNSなどでホームレスの方から飼い犬を引き離すレスキュー動画などを見るたびに、何が正解なのだろうと自問自答していた。

現代において犬を野に放つのは、人間でいうところの、カメラも回ってない状態で無人島サバイバル生活をする罰ゲームみたいなものだ。当然、飼い始めた犬を野に放つなんて虐待以外のなにものでもない。ただなんとなく、犬にとっての一番の幸せが人に飼われることなのかどうなのか、少し不安だったのだ。古来の姿と、本来の姿の美しさを混同してしまっていた。

ラジオに来てくださったゲストの方々には、本当にいろいろなことを教えてもらった。なにより、私がお話を伺った方の多くは、犬と暮らしてとても幸せそうだったし、写真や動画で見せてもらった犬もとても幸せそうだった。犬に感謝していて、人生が変わったという人さえいた。

人生が変わるような出会い。半信半疑ながらも、私にとってそのフレーズは魅力的だった。自分のドライな性格を、どこかコンプレックスに感じていたからだ。それから、いろいろな動物保護団体のInstagramを見るようになった。

ちょっとおっちょこちょいの子犬に惹かれる

あるとき、他のワンちゃんたちに気圧されて転んだり、水を飲みながら寝ていたり、おっちょこちょいな子犬に猛烈なシンパシーを感じた。それが今回、我が家に迎えることになったポメプーのオス(3ヵ月)だった。ポメプーとは、ポメラニアンとトイプードルのミックス犬。しかも、ポメラニアンの先祖であるサモエドの面影を感じる。これほどまでに、私たち夫婦の合点がいく犬がいるだろうか。名前はキツネに決めた

小鳥を飼いたい人や飼い始めたばかりの人に知ってほしい知識や注意点を伝える連載「トリ扱い説明書」。3羽の小鳥と暮らす鳥野ニーナさんの漫画と、「森下小鳥病院」の院長・寄崎まりを先生の監修&エッセイで、わかりやすくお届けする。

コロナ禍でペットの需要が高まっている昨今。特に小鳥は見た目のかわいさと、「散歩をしなくていい」「犬や猫と違ってしつけがいらない」など手軽に飼えそうなイメージもあって、人気を博している。

おっとりしているのに、どこか人間を信じていないかのような、冷めてみているような三白眼をたまにするところも気にいった。「この子は大物になるぞ」という期待が膨らむ。フィジカル的にではなく、存在感の話だ。

いざ初めての対面。抱っこしたときに、みぞおちあたりからもぞもぞとこそばゆい、認めたくないけどたしかに湧き上がる何かがあった

20代の頃、ナイスガイを見つけたときに走ったビビビ感ではなく、好きなアーティストのライブで目が合ったときに感じたキュンキュン感でもない。

もしかしたら、これが母性ってやつか

その日から、ワンちゃんのことしか考えられなくなった。気づけば仕事中でも子犬の写真を見返している。抱っこしたときの感触を思い出したいがために、エアで抱っこしてみたりもした。認めたくはなかったが、3日目ぐらいで一旦認めてみることにした。

もしかしたら、これが母性ってやつか。

そうなんだ、これが世間一般にいう母性なのか。

先程述べたように、私は少しドライなところがあって、モノにちゃん付けしたり、この子呼ばわりすることができない性格だ。小さい頃のお人形に始まり、愛車や下着、ルンバにまで名前を付けて、「この子は、」と語る人のことを勝手に母性に溢れた人とカテゴライズして、どこか横目に見ながらもその愛情深さを尊敬していた。

でも、「私にはそんなことはできないもん!」「どうせ私はドライな人間ですよ」と、絶対にモノをちゃん付けで呼ぶもんかという虚勢を張って生きてきた。ルンバは、ルンバ。犬は犬。にわとりは家畜。

そうやって生きてきた自分に「母性」があるなんて。

ちなみにここでは「子どもを産んだ母親なら当然持つ感情」として母性という言葉を使ってはいない。ただ、誰かを無条件にとてつもなく愛おしく、大切に感じる思い。それを「母性」と呼ばせてほしい。もちろん「子どもを産んだ女性は母性があるからすべてを子どもに捧げて当然だ」というような、誰かにとって都合のいいような使い方をすることも好きではない。

ただ、とにかく無条件に相手を愛おしく大切に感じる思いって、あるんだ。一度認めてしまえば、虚勢なんてただのゴミ。可燃ゴミくらい簡単にあっさり捨ててしまった。

余談だが、不思議なもので、それからというもの友達の子どもなどに会っても愛おしさが桁違いで、人間の赤ちゃんと子犬のお世話の大変さを恥ずかしげもなく並列に語ってしまう自分がいる。

もう突き進むのみ。トライアルという形から、我が家に迎え入れることにした

名前は「キツネ」にした。コムレンジャーとは、若者がいう最上級の褒め言葉、「マジ神?」の意味ではなく、キリストやガネーシャなど崇めるべきものという総称の神でもない。

我が家のチームリーダーということで、「世帯主」という名前にしようとしていたところ、姓名判断で字画がよくないとわかった。いろいろ試した結果、スーパーウルトラ大吉だったのが「前川さん」と「キツネ」だった。「個性が武器。独特のセンスでチャンスを掴みます」という診断メモに惹かれ、「キツネ」にした。しかも、英語にするとFOX。反対から読めばXOFだ。