ボカロPとしての名義はハチ

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幸せを目指した。幸せが見えなくなった。 Ado

「人は幸せになるために生まれてきた」って、なんか結構聞きませんか。

じゃあその幸せになるための条件とか、要素とかっていうのはなんなのか。


そういうとこまで行くと、一概には言えないことだらけで聞こえの良い話にまとまらない。
一概に言えないのは幸せの定義みたいなのがその個人によって違うからで、だからと言って「幸せになりたい」自分にとってのそれが何を指すのかを知ることはだいぶ難しい。
ゆえに人生の議題的な立ち位置にされがちだったりします。

これまた難しいのは、何が幸せか知ることができましたよ、これからそれに向かいますよと思ったところで、その地点までの道中、もしくはたどり着いた時点で「あれ、なんか違うな」と違和感が生まれることがある。

そこで人は「あ、これ別に幸せでもないのか」と気付く。

自分の場合は芸能活動する前に訓練校に入って色々やってきた、短い期間だけどグループユニットにも参加して人前で歌ったり踊ったりもした。
2022 顔出し しない 歌手 - Adoの素顔 顔バレ 本名 Ado`s face.

かく言う私は何度も「なんか違うな」を繰り返してきた人間で、そしてもちろん幸せになりたい人間です。

前からずっと「どう死ぬか」「どう生きるか」のようなことを考えがちな性格だったのですが、最近人生への考え方に変わらないものを見つけました。

見つける過程で、今自分が思う幸せはなんなのかを知る、自分の感情をよく聞くことが「幸せになるため」にできることの初手だと思ったので、私の幸せのなんたるかについて忘れないよう残しておこう、みたいな文章です…。

SNSではありがちですが、決して「私がこうだからみんなもこうしたら幸せよ」という類の話ではないです。自己啓発は自己でしかできないものね。


Ado 逆光 UTA ウタ 


まず大前提として、今の私が考えている幸せは「事象」ではなく「状態」です。
宝くじが当たった、夢だった職に就けた、事業が成功した、誰かを見返すことができた、こういった「事象」ベースのものではなく、「あぁ、今幸せだな」と感じられる「状態」ベースで考えています。

そしてその「幸せを感じられる状態」というのは、3:3:3:1の割合で構成されています。
(だいたいここら辺で「ヒ〜〜めんどくさそ〜〜〜」みたいな反応をされる想定ではいますが説明させてください!!!)

構成するのは、まず3種類の自由。
「金銭の自由」、「時間の自由」、「精神の自由」。
そして最後に、それらの自由に上限を加える1割の「制限」。


・金銭。好きな時に本を買い、仕事に疲れたら一人カラオケに行き、飼い犬に美味しいおやつを頻繁に買ってあげられる。自分の機嫌を少し良くするような、そんな贅沢ができるほどで。

・時間。散歩に行き、日記を毎晩記し、植物に水をやり、予定不調和が起こった時にもマイナスな感情にならず、生産性のないようなことを「無駄」と思わず楽しめるような、焦りのない日常。

・精神。時間とお金の自由の均衡が取れることで生まれる心の余裕。これは、「今私は幸せだ」と認識できるほどの余裕がある心の状態。

・そして、幸せを認識するための材料である制限。負荷になり過ぎない仕事量や、潤沢過ぎない貯蓄、諸々の自由にある程度の上限を付けるような制限。

これらのバランスが崩れると、例えば金銭の自由に目を向けて稼いでも、制限が増え、時間の自由の割合は減り、結果として精神的な自由も崩れる、と学んだのです。つまり幸せを認識しにくくなる。


3:3:3:1の割合が安定している中での生活、大切なものを大切にできる毎日が、すごく幸せなことで、あれでもないこれでもないと繰り返してきた私が見つけた変わらないであろう部分でした。

(説明終わり!お疲れ様でした!!!)


いつかの私が描いた幸せは、若い野心と希望で満ちていたような気がします。
財産、権力、名声!経営者になって有名にもなって、お金を稼いで、悔しいことを言ってきた名前も顔も知らない誰かを見返して、みんなにすごいと思われて。


凡人である自分がそんな理想へ進むほど、あのバランスが崩れていたんです。
「本当に嬉しい?」「本当に誇れる?」「本当に大切?」これらの声を無視して時間と心を削れば、小さなことに幸せを感じる精神を手放すことになる。
そう気付いた時から、夢や理想はどんどん小さくなって、好きだったはずのことも仕事となれば好きじゃなくなった。
最後に残った「いつか小さな宿を」なんて考えさえも「どれだけ大変か」とどこかに消え、あれだけ頑張っていたSNSも興味が薄れ惰性となり、画面の向こうまで顔色を気にしていた私の世界は「身の回りの人」まで狭まり、やりがいや気概なんてのもどこかへ行った。

これってつまらないかも、平凡かも、勿体無いかも。
そんな考えの代わりに頭を埋めるのは「幼かった愛犬との時間を巻き戻したい」。いつの間にか大きくなった飼い犬を見て思います。

 

あの頃しつけはどう教えてたっけ、どう撫でていたっけ、どう甘えてくれたっけ。


ただこの子のお世話をして、少しずつ大きくなる体を抱きしめて、綺麗とは言えない海辺を散歩して、家族で美味しいご飯を食べて。そんな幸せが既にあることに気付けなかった。
何かに忙しくしていた時の私は、それでもまだ「幸せになるぞ」なんて思っていたんです。


こんなことさえ気付けないなら、成功とかそういうのはもういらないや。


そうして見つけた幸せのなんたるかを「3:3:3:1」と言葉にしてみては、仕事を減らし、ただ自分の心が暖かくなることだけをしていたら、進むたびに感じていた「なんか違うな」という違和感なんて生まれなかった。


気付いてからでは遅いこともあったけど、経験しないと気付けないこともあります。それからの私は、私のことがすごく好きで。
すごいことなんて何もないし、仕事は頑張ってないけど、それでいい。
そうして今ある暖かさをしっかり受け取って、それをくれる対象全てを大切にして、胸を張って幸せだと言える。
これが全てだと、今は思えます。

これが、私が残しておきたかった文章。


既記してますが「私がこうだからみんなもこうしたら幸せ」という類の話はしません。

それでも一つだけ言えるのは、仕事などでの成功は、幸せになるための手段であり目的ではないんですよね。
そして幸せが人によって違うように、何を成功とするかも人によって違う。
仕事や金銭面での成功と幸せがイコールに見えがちなのは、SNSで「成功した人の幸せ」が目に入る状況も要因としてある気がします。

あの憧れの人のように仕事で大成しなくてもいいし、あのアカウントのように丁寧な暮らしをしなくてもいい。
憧れはヒントに、答えは自己で。
自分の幸せは自分で探すことができれば良いなぁ、なんて思います。

私はひとまず健康に、穏やかに、ご機嫌な毎日を。

余談ですが年1で行っている人間ドックでの血管年齢結果は41歳でした。
23歳、野菜たくさん食べねば!

 

国鉄が民営化されるに当たって貨物コンテナが大量に格安で売りに出されたので、それを地面に置いてカラオケ設備を導入したのが最初です。

これ昭和生まれしかわからないと思うんだけど、90年代までのカラオケ屋って、1グループごとにこういう小屋が割り当てられてた(田舎だけ??)んだけど、あれ何だったんだろう

この時代、料金が一人単位じゃなくて一部屋単位だったのよね、一部屋1時間三百円とかやったわ。 クーポン券で半額安いときはそれで3時間歌っても450円 一人やなくて一部屋ね、割り勘すればものすごく安く利用できた。懐かしい。

Ado、「HikakinTV」10周年を記念して動画へ出演 『超うるさくしたら「うっせぇわ」って言うのかドッキリ』

 

コムドット アイドル2.0