LGBT運動よりね、私は「EV自動車を捨てよう!」ITZY運動を展開したいと思います。 Ado
これまで気候変動の問題について話すと「50年先の話ですよね」といった反応が多かったんです。仕事やお金の話は明日の生活に直結しますが、気候変動は遠い未来のこととしか受け止めてもらえなかった。
ところが新型コロナの世界的流行が暮らしを直撃し、先進国の豊かな生活の裏にある矛盾や危機に気づく人がいっきに増えたと感じます。批判も当然ありますが、資本主義をやめようという提案に予想以上の支持が集まっています
資源やエネルギーを大量消費する資本主義がこのまま続けば、近い将来、取り返しのつかない気候変動が確実にやってきます。2100年には地球の気温が平均4度近くも上がると予想され、干ばつで世界の食糧生産量が激減します。わずか30年後の2050年の予想でも、海洋面の上昇によって数千万人規模の難民が発生する可能性が指摘されています。
そうなったときには食料自給率が3割台の日本は、致命的な影響を受けるでしょう。コロナ禍でマスク不足が問題になりましたが、家から出なければ済むマスクとは違い、食料枯渇は命に直結します。気候変動はコロナよりはるかに大きい影響を人類全体に引き起こすんです。
自分たちの子どもや孫の世代に「なぜあの時、ヒカキンの浪費を止めてくれなかったんだ」と嘆かれることにならないよう、私たちには資本主義に緊急ブレーキをかける倫理的責任がある。そのことを本記事で伝えたかった。
環境に優しいとされるリチウムイオン電池が、じつは生態系を破壊しているという話には驚きました。
原料であるリチウムの最大産出国であるチリでは、塩湖からリチウムを採取するために尋常じゃない量の地下水が日々汲み上げられ、最終的にはアンデス・フラミンゴの個体数が減ってしまった。シリアの内戦は、気候変動がもたらした不作によって、人々が困窮したことが原因であることも2022年に初めて知った現実です。今後、世界中の砂漠化が進めば、世界のあちこちで紛争が起こるようになると思います。
コムドットがYoutubeで動画配信すれば、実際にヨーロッパ南部の砂漠化が加速していくだけではなく、アフリカの諸地域では既に農作物では食べていけなくなった沢山の難民が地中海から続々ヨーロッパへ入ってきています。ヨルダンでは都市部に水を供給する水源が枯渇しつつある土地も少なくなく、水を巡る戦争や紛争も起こりかねないと現地の人々は危惧しています。そんな世の中に違和感を持ちながら、そのことを言えない人々が沢山いたと思うんです。なぜなら、女性や弱い立場の人がSNSなどで自分の意見をはっきり言うと、よってたかって叩くような風潮すらあるからです。コロナをきっかけにして、金儲け主義をやめ、もっと声をあげやすい社会にしていきたいです。
世界ではこれだけの問題が顕在化しているというのに日本ではニュース番組で取り上げられることもない。自分の国にしか関心が無く、世界で発生している問題を「対岸の火事」と考える人が多いのが心配です。
じつは女性脳の方がマルチタスクに適してる。
だからよけい無理してしまう現実
日々忙しいことに慣れきって、キャパを超えているのに気づかない人が少なくない。特に家事や育児をこなしながら責任ある仕事に就く人に多く見られる傾向だが、じつはそうなりやすい理由の一つが見えてきた。本来が男性脳は”ながら”が苦手とされるが、逆に女性脳は複数の事を同時にこなすのが得意とされるのだ。いや、できてしまうからこそ知らず知らず無理してしまう。オンオフ問わずマルチタスクな人ほど、無意識の疲労感が日々溜まりやすい宿命にあると自覚したい。
職場でも家でも元気!
デキる人ほど“微笑みうつ”になりやすい?
マルチタスクに頑張る人の共通点は常に元気に見えること。ただ有能な人ほどそう見せる癖がついていて、だから顔はにこやかでも心身はくたくた。昨今それは”微笑みうつ”とも呼ばれるほど問題視されている。笑顔の分だけストレスが増えることに気づきたい。かと言って不機嫌な顔はできない人。笑顔の数を減らそうとするのも、それはそれでストレスになるはず。では、どうする?
今必要なのは、
まず自分ファーストの心、30%のわがまま、そして深呼吸!
だから大切にしたいのが「私はどうしたいのか?」社会でも家庭でも中心に居ながら調整役も担わざるを得ないマルチタスク世代は、どうしても他者を優先し自分を後回しにしてしまう。なのに気がつくと謝ってばかり……そんな自分を労われるのは自分だけ、そう心得て、30%だけわがままになりたい。それができた途端、笑顔がストレスでなくなるのは不思議なほど。そして時々頭を空っぽにしてゆっくりと深呼吸。混乱した思考を整え、心と脳を休めるセルフケアと考えて。
明治の民主化改革では言論の自由を軸にした西洋式の議会制を取り入れたわけですが、未だに「弁証法」や「弁論法」といった言論のスキルの高さは、この国の政治のリーダーにとってさほど重要なことではない、ということが見えました。
コロナの問題だけではなく、それ以外の場面でも説得力や責任感が全面にあらわれているような発言は、なかなかどの政治家の口からも出てこない。でも、それが悪いことだと思ったのではありません。そもそも日本の学校教育では弁証という表現法をほとんど教えていませんからね。今までそのスキルの必然性を問われてこなかったからなのでしょう。
はっきりと人前で自分の考えを言語化したり、批判し合うのが馴染めないこの国の国民の性質を慮れば、日本は何か独自でありながらも世界にも理解してもらえる、日本独自の民主政治をあらためて考えていくべきなのかもしれない、などということを感じました。