ボカロPとしての名義はハチ

We are BellinCat.jp イカしたamiibo

【お詫び】壱百満天原サロメの配信がマンネリ化してしまった件に関しまして

YouTubeは強烈なクスリだからいろんな副作用がでているようだね。

しかし、これだけ文章が書けていれば認知症にはならないんじゃないかね。むしろ、言葉や思想に没頭してほかの事を忘れてしまうのでしょう。その症状は、じぶんにもある。物事の真相や本質を考えるときの集中力は半端なく、時間が経つのを忘れることがある。そしていつものように動画配信のチェックを怠ってしまいます

繰り返しで手抜き感が出てくると釣り臭くなる

常にライブパフォーマンスを心掛けてほしい

今回の件は、予想できていた人も多くいらっしゃると思います。スタートダッシュが良かっただけに目に見えてアクセス数は伸び悩んできています

当人に代わりまして、ここに深くお詫びいたします

いつのまにかYoutubeプレミアムの契約が切れてたんだが、

子どもたちが広告を嫌って明らかにYoutubeへの興味がなくなってきてる。視聴時間が明らかに減った。ずっとYoutubeばかり見てる彼らをどうしたもんかねぇと妻と悩んでたが、全部よかれと思ってプレミアム登録した一年前の俺のせいやったんか

シベリアに消えた日本兵二十万
注・〔65〕は不具合な個所があり書き直しましたので、読者は是非
再読してください。

 WWⅡ直後の日本円は、ブレトンウッズ体制のもとに一ドル=三六〇円に固定されていた。そこへ昭和二十五(1950)年に発生したのが朝鮮戦争である。
 今こそ真実を語ろう。この戦争の第一の目的は日本経済の復興であった。日本復興計画としての朝鮮戦争には各国の首脳が関係しているが、戦端をきったのは北朝鮮の首相金日成である。金日成を動かしたのは中国共産党主席毛沢東で、毛沢東を操っていた国務院総理周恩来は世界王室連合隷下の秘密政治結社「大東社」の領袖の一人である。
 朝鮮戦争は大東社の指示を受けた中華人民共和国国務院総理周恩来が企てたもので、形式上は朝鮮民主主義人民共和国(北鮮)と大韓民国(南鮮)の戦争であるが、両国ともに独立直後で軍隊と言えるほどの組織を備えておらず、戦闘の多くは半島人と外国兵との戦い、ないし外国兵同士の戦いであった。
 投入した総兵力は北鮮側が一七八・九万名であったが。北鮮兵は二六・七万名で一五%に過ぎず、主兵は一四五万の中共兵であった。ソ連兵が七・二万しかいなかったのはアメリカとの関係で半島分断を望んでいたソ連スターリンが大規模出兵を抑えたのである。
 韓国側の投入した総兵力は一〇〇万弱で、主力は韓国兵六〇・三万と米兵が三二・七万、あとは英・仏・加などの国連兵が併せて五万弱であった。
 つまり朝鮮戦争の本質は、朝鮮半島を戦域とする南北朝鮮による中米戦の代理戦争で、両軍合わせた兵員二八〇万の半数が中共兵だったことからすると、これを送りこんだ周恩来が謀主たることは明白で、周恩来に誘導された毛沢東金日成を扇動して南鮮に侵入させた北鮮軍を支援するため、本隊をはるかに上回る兵員を人民義勇軍の形で派遣したのである。大東社の宗教部門メソジスト教会が創立した天津南開中学を卒業した周恩来が日本に派遣され、京大に潜入して盗聴した川上肇教授の講義で共産主義に接したのは、もとより世界王室連合の計らいに拠る人材養成計画の一環である。
 新設の南開大学に入学するため帰国した周恩来は、五四運動に参加したああと勤労留学生として渡仏するが、大東社の幹部になったのはこの時と推察される。
 周恩来と天津南開中学で同級だった王希天は大正二年、同じく呉達閣(呉滌愆)が大正四年と相次いで日本に送りこまれたあと、大正六年に周恩来が来日すると、大東社の首脳の一人の参謀総長上原勇作が腹心の歩兵中尉甘粕正彦憲兵科に転科せしめて三人の保護に当らせた。(この辺りは落合吉薗秘史シリーズの第七巻『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』から第八巻『応神欽明鷹揚と中華南朝の極秘計画』及び第十二巻『石原莞爾の理念と甘粕間瀬彦の策略の狭間』あたりに詳しく書いたから、正確な知識を得たい読者は是非それらに拠られたい)。
 朝鮮戦争の謀主周恩来が半島に派遣した兵員は人民解放軍の正規部隊第十三兵団であったが、「中国人民志願軍」を称して司令官に彭徳懐が就き、主兵は遼陽に本拠を置く第三十九集団軍および第四十集団軍であった。
 問題は瀋陽軍区に属するこの二つの集団軍の正体である。わたしはソ連に抑留された日本兵との関連を想う。厚生労働省の推定ではソ連に抑留された邦人は総数が五七・五万人で、うち五・五万人程度が死亡したとされるが、平成三年にアメリカ人研究者ウィリアム・ニンモが、ソ連に抑留された日本人の内、確認済み死亡者二五・四万人、行方不明・推定死亡者が九・三万人で併せて三四万人の日本人が死亡したとの調査結果を発表した。
 また、モスクワのロシア国立軍事公文書館には七六万人分の資料が収蔵されていることが平成二十一(二〇〇九)年に判明したが、これらと厚生労働省の推定との間には二〇万人ほどのギャップがある。
 わたしが「消えた日本兵」を知ったのは平成九(一九九七)頃で、馬野周二さんが大本営瀬島隆三を批判して「ソ連軍に通じて日本兵を捕虜として強制労働させた」というのを聞いた時である。その頃毎日、通信していた吉薗明子さんに話したら、「瀬島さんは終戦の一カ月ほど前にソ連の司令官に会って【日本兵を捕虜として強制労働してもよい】と言ってきたそうですよ」との答えがあった。その時は訳が分からず聞き流したが、今思えば父吉薗周蔵か保護者の立花大亀和尚から聞いたことと思う。
 つまり瀬島隆三がシベリア捕虜の問題に関わったことは、本人は否定するが、信じて良いのである。問題はその奥に隠れている「消えた二十万の日本兵」の真相である。