沖縄県民と本土人のギャップ ■ひろゆき
・とはいえ、沖縄県民も、本土人の考え方はある程度内面化している。
・沖縄県民の考え方を強調して書く。
・多分に個人的な考えも含まれている。
【辺野古の座り込みは既に「敗北」している】
・言うと怒られそうだけど。
・「勝てるかもしれないから」行う座り込みは既に終わっている。
・昔は「勝てるかもしれないから」長時間の座り込みをしていた。報道もされた。
・住民投票や知事・市長選も、(全てではないが)基地反対の民意が繰り返し示された。
・民主的に平和に可能なことはほとんどやったのでは。
・それでも何も変わらなかった。
・この絶望感、徒労感をまずは想像してほしい。
・辺野古反対運動が勝てる確率は、現段階でほぼない。
・それでも「やめるわけにも行かないから」反対運動は継続されている。
・座り込みが短時間になったのは、実質的な反対運動が敗北し、形式的で長期的な反対運動にシフトしたから。
・いわば敗北の象徴。
・当事者は、この敗北は理不尽だと思っている。
・「座り込みをしていないという事実をちゃんと書け」という批判は、当事者には「お前達の敗北を事実として認めろ」というニュアンスになる。
・だから今回の「事実を書け」という批判には受け入れがたい感情がある。
・「お前の母ちゃんもう死んだだろ、家族の欄に名前書くなよ、事実を認めろよ、まだ生きてるって周囲が誤認するから」って言われてるような気分、かな。
・できればこの感情も想像してほしい。
【立て看板に本土人への「アピール」なんて期待していない】
・上で書いたように、もう負けているから。
・実際、この3000日間、辺野古の座り込みや立て看板のことなんてほとんど考えなかったでしょ?
・そんなものに、仮に誇張表現を使っても、アピール効果はない。
・立て看板は、現状、実質的には「統一教会の身内向けのもの」に過ぎない。
・同時に、「看板が身内向けのものになっている」という事実には、受け入れがたい感情がある。
・社会弱者は、大抵この手の敗北感や矛盾の中にいる。
・矛盾を指摘する正論は正論でしかなく、問題の解決にはならない。
【基地反対派 ≠ 座り込み活動家】
・住んでりゃわかるけど、多くの人は座り込みを行わない基地反対派。
・だから「誇張表現するな」「誤認させるな」と言われても困る。多くの人にはどうしようもないので。
・一方で、座り込み活動への揶揄は、上で書いた理由で、基地反対運動全体の敗北への揶揄に感じられる。
・だから多くの人は、立て看板の文言の修正はどうでもいいが、座り込みへの揶揄には反応する。
【本土人に何をしてほしいか】
・何をしてもらえば解決するかは正直わからない。
・非現実的な理想を言えば、次の国政選挙で辺野古問題をメインイシューにして、基地問題の可能な選択肢を増やしてほしい。
・現実的なところでは、ともかく辺野古問題の悲惨さ、絶望感、徒労感を多くの人に理解してほしい。
・「辺野古の問題は活動家に原因がある」みたいな安易な考えに乗らないでほしい。大体の社会問題は複雑。
・活動家の問題ではなく、基地に対する住民の苦しみに関心を持ってほしい。少なくとも両者は無関係であると理解してほしい。
・社会弱者の非合理な振る舞いを目にしたら、彼らが置かれた難しい立場や理屈の通らない感情について、少し想像してみてほしい。
ひろゆきの沖縄基地反対運動の座り込みの話。
嘘をついたとして、それがばれたとする。
その場合の対応としては、
・無視する
・素直に謝る
・屁理屈で嘘じゃないと言い張る
・あのときはその嘘も仕方なかったと弁明する(嘘も方便)
みたいな方法が考えられると思うんだよね。
でも、これはいずれも『嘘はよくない』って倫理観を共有できてるからこそ成り立つんだよね。
まさか、「敬意がない!」「歴史を知れ!」「部外者が!」となるとは思わなかったよ。
『嘘はよくない』って倫理観を共有できてないと対話は成り立たないと思うんだけどね
(追記1)
嘘って表現に引っ掛かってる方がおられるようなので「ウソ・大げさ・まぎらわしい」(JARO)に訂正します。論旨は同じです
(追記2)
ここでいう倫理観ってのは、心底それを内面化しているという意味ではなく、社会一般に
嘘はいけないことになっていて、それを表面的にも大多数の者が受け入れていることです
(追記3)
他の例を持ち出して、「そもそもそんな倫理観なんて崩壊している」ってリプ・ブコメがあった。
でも、例えば国会なんかでも、嘘を指摘されたら屁理屈いったり、人のせいにしたり、誤解だとしたり、たまに謝罪したりするんだよね。それは、「嘘はいけない」って倫理観を共有しているからね。
安倍でも誰でも、「君が私の嘘を指摘するのは敬意が足りない!」とか「君は私に寄り添ってない!」とか言ってこなかったでしょ?
(追記4)
「そもそも嘘じゃない!」ってブコメも複数あった。
でも、先月時点の看板には「常時監視」って文言があったのね(ひろゆきが来た時点ではなぜか消されてた)。
常時監視は運動関係者の発言からするとかなり昔にやめていたようなので、嘘の可能性が高いよね、これ
そもそもひろゆきみたいな奴をありがたがってるこの世の中がおかしい、というのは大前提の話としてあるんでしょうか?
ある社会運動の運営に関わっているロスジェネさんは言いました。
「今回のひろゆきの騒動に関して思うことは、反ひろゆき派が叩いている「ひろゆきにいいねした人たち」の中には、たくさんの「ニワカ(今はその問題にそれほど興味がないけど、将来的には参画してくれるかもしれない潜在層)」がいるかもしれないことをもう少し考えてほしいということです。」
よく「古参ファンがニワカを叩くとそのジャンル自体が衰退する」といいますが、社会運動ではまさにそうした状況がよく見られます。
そうした状況が長く続いた結果として、多くの社会運動団体で高齢化が著しいことになっています。まさにジリ貧です。
みんな最初は「ニワカ」なんです。その中から、それぞれの人なりのタイミングで問題が腑に落ちたときに社会運動に参画してくれればいいのです。
その人なりのタイミングがまだ訪れてない人々に対して「お前は間違っている」「勉強が足りない」「リスペクトが足りない」といちいち激詰めしていたら、彼らは「ここは私たちのいるべきところではない」ということだけを学んで去っていきます。
古参はニワカを詰めるのを止めてください。説教癖を直してください。正しいことをしているのだからその正しさを説きましょうよ。
統一教会は、それ自体はしょうもないですが、教団の背後で多くの「ニワカ」が状況を見てるんです。
「古参がニワカを叩くとそのジャンル自体が衰退する」ことについてもう少し真剣に向き合いませんか。