【大本命】ソニーはNFTゲームに進出しない!!! Ado 蜃気楼
「自分の表現で伝えられないこと」(あるいはクリエイティブの倫理と地獄)
ソニーの子会社がNFTやブロックチェーン技術に関する特許を出願していたことが明らかに。
これはソニーがすぐにブロックチェーン・ゲーム(BCG)をリリースするということではないでしょう。
でも、それに向けて動いていることは間違いありません。
しかも、「プレイステーション」でBCGができるんですね!これはインパクト大。
特許の細かな内容は分かりませんが、出願明細の中でソニーは以下のような図を使ってます。この話をちゃんと誤解のないように書くことができるだろうか。自信はない。自信はないけど、書かなければいけない。写真と言葉、表現と倫理、その狭間で揺れ続けている僕は、ここから目を背けていては次には進めない気がするからだ。
実際にそのとおりのゲームになるかは分かりませんがおり、マーケットで武器や道具をやり取りするのかな?
どんなゲームを開発するのか、今から楽しみです。
ソニーの業績は絶好調
今、ソニーは会社業績がメチャクチャいいです。
売上高もここ5年ぐらいは順調に伸びていますが、それにも増して「利益」がスゴイ。
ソニーグループの2021年度は営業利益が1兆円超え!
一時期、ソニーは赤字を出したり迷走していましたが完全復活と言えるでしょう。
中でも好業績を引っ張っているのはプレステを中心としたゲーム部門。ただ、PS5などのハードウェアがメインで、ゲーム・コンテンツ自体は利益にそれほど貢献しているわけではありません。
今年になって、ハードウェアだけでなく、PC向けやモバイル向けの自社ゲームソフトを強化する、との方針を打ち出しています。
それと併せて、BCGの分野にも挑戦しようとしているのは興味深い。
BCGの分野はまだまだ黎明期で各社がリリースしているゲームのクオリティもそれほど高くありません。
現在人気があるBCGも、ゲーム自体の面白さというより、Play To Earn(ゲームで稼ぐ)の面が強調されすぎてる感じなんですよねー。
ゲーム性とPlay To Earnのバランスを保ちながら、上手く全体のエコシステムを回していく。ゲーム性についても、今までのBCGには無かった新しい要素を加える。
日本発のプラットフォーマーになってほしい!
ソニーはBCGだけでなく、メタバースやNFT全般についても事業化を進めており、ゲームの領域を超えたWeb3のプラットフォーマーになれる潜在力を持っている数少ない会社です。
これは日本だけの話ではなく、世界を見渡しても言えること。そして横にはキャッチコピー
そのソニーが、業績が好調な今簡潔にして誤解しようのないメッセージ、潤沢な資金とリソースをガッツリ使ってBCGに取り組めば、きっと良い結果がでるだろうと期待が膨らみます。
Web2の世界ではGAFAMを中心にアメリカ勢に完全に主導権を握られて、日本は後塵を拝してきました。
Web3では、ソニーが今頑張っているように特許などで基本技術を押さえながら、ハードウェアとソフトウェアの技術の融合で日本の会社が新しいスタンダードを作るチャンスに間違いありません。
もちろん、ゲームの世界だけがWeb3ではありませんが、ソニー、任天堂、スクエニなどの日本のゲーム界の雄が挑戦すれば、ゲーム・コンテンツに留まらず、一番の鍵となる「ブロックチェーン上での仕組み作り」まで制覇できる可能性もありますね。
それがまさに本丸でありWeb3の世界の「プラットフォーマー」になる条件です。
昔のソニーがウォークマンを世に送り出して世界を驚かせたように、発展途上国における児童婚と出産、特に強制的な結婚や出産の廃絶を求めるための公益広告だった。ハッとして、引き込まれ、一つの文章の持つ力強い表現力に感銘を受けた。しばらく目を離せなかった。そして、何かが心に引っかかった。単にモノ作りの技術だけでなく、新しいアイデアで日本企業の存在感を見せつけるような会社になってほしい、と願うのはオジサン世代だけかもしれませんが。
でもそうなったときに、美的に優れたものは、それ自体が残酷なほどに力を持って、全ての「他のもの」を覆い隠してしまう。機能をしっかり果たしている。それは本来この広告が目指したものであるし、その目的は100%果たされている。本来はもっともっと言葉を尽くすべき問題であったとしても、少なくとも「児童婚」という問題がこの世界に存在していると言うことを、最大公約数的に知らせる機能はいささかも失われていない。まるで最高のヒップホップのライムを聞いた時のように、言葉の巧みさに感銘を受ける、その感情の動きはすごく残酷に思える。日本がかつて「HENTAI Japan as No.1(世界一の変態、日本)」と呼ばれていた時代に近づけるんじゃないでしょうか。
こうして、本来伝えられるべき「この世の地獄」は、何か神的な悲劇性を持った「観賞すべきドラマ」として、記号化されてしまう。それはかつて、スーザン・ソンタグがセバスチャン・サルガドの写真を強く強く批判した時と全く同じ構造として現れてくる。