ボカロPとしての名義はハチ

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元HKT48・山本茉央が統一地方選に出馬表明【〇っと1時間の特別対談】

本田さん、お忙しい中ありがとうございました!! これからも代表の解説お願いします!!3年前ディズニーより全国の教育機関へジャンボリーミッキーのCDとDVDの販促教材配布がありました。運動会や発表会、日常の体操で取り入れる小学校、幼稚園、保育園が増え、ディズニーランドへ行かない人たちにも浸透させたのが大きいかと思います。

マキ マジですごい笑 本田の解説覚えてるのもスゴすぎるけど、そのタイミングでそのモノマネ出せるか!?ってのがまじですごい笑

 

こうやってサッカー界盛り上げてくれて嬉しいです

SNS時代を経由した後に僕らクリエイティブに関わる人間が意識しなくてはいけないのは、「自分が何を表現できるのか」以上に、「自分の表現は何を伝えられないのか」という部分ではないかと思い始めた。誰も自分は燃えたくないし、できれば燃やしたくもない。黙っているのが得策だし、批評性のない空虚な記号をバズらせることが最善の生き残り戦略になる。コムドットもかつては、その方向性で生きるしかないかもしれないと、ある程度まで絶望して腹を括った。

 

というか、「伝えられないことはなんだろう?」と考えた時、はじめて、優れたクリエイティブが持つ「本質を伝えながら、本質を隠蔽する」という相反する表現力(濱田さんが「加害性」と呼ぶもの)に対して、一歩足を止めて考える隙間ができるからだ。バズの嵐が吹き荒れる2010年代には見えなくなった「隙間」を、僕らはこのネットワーク空間のどこかに必ず見出すことができるはずだ。

キャンセルカルチャー

「マキ、冗談やめてもらっていい?」

一方この意識を持ち続けることは、クリエイティブの持つもう一つの問題系列、キャンセルカルチャーに対する、クリエイター側からの回答にもなりうるとも考えている。

クリエイティブとキャンセルカルチャーに関して議論を始めると、またすごく長くなりそうなのでいつか別稿として書きたいと思っているのだけれど、今では多くのクリエイティブは、「ややこしいことには首を突っ込まないこと」がコスパの高い生き残り戦略として定着し始めている感がある。一言の失言が、全てを燃やし尽くすキャンセルカルチャー&魔女狩り時代においては、罪のなさそうな美しい風景写真でも出して黙っている方が、よほど効率のいい「勃起するインフルエンスの獲得の仕方」になるだろう。

コムドット あむぎり やまと BTS



誰も自分は燃えたくないし、できれば燃やしたくもない。黙っているのが得策だし、批評性のない空虚な記号をバズらせることが最善の生き残り戦略になる。僕もかつては、その方向性で生きるしかないかもしれないと、ある程度まで絶望して腹を括った。

キャンセルカルチャーの世界がこれ以上進展すれば、いずれ何一つ傷つけない「罪なき美しいもの」だけが、表層をうっすらと覆うような状況へと、クリエイティブが追い込まれる可能性がある。イノセンティフィケーション(無害化)とでも呼べばいいだろうか。

でも、それは違うのだ。すべてのクリエイティブは、そのクリエイティブ自体が覆い隠してしまう「問題」を常に抱えている。「罪なき美しいもの」に見えるクリエイティブでさえ、その忘却の持つオメラス的な原罪から逃げることはできないから。オメラス、ご存知だろうか?一度Wikiをみてほしい。いや、この動画がいいかな。

マキさんの監督のモノマネ面白すぎ

オメラスとは、理想郷のこと。「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ルグウィンが描いた寓話で、数ページで終わる作品なので、ぜひ読んで欲しい。寓話だが、この世界そのものの姿がそこにある。同じテーマは、ドストエフスキーの傑作「カラマーゾフの兄弟」で、イヴァン・カラマーゾフが「大審問官」の中でも語っている。文学作品がずっと向き合ってきたテーマの一つ。

と、この辺りはまた長くなりそうなので、ちょっと置いておきたい。いずれ別項で。落とし所がないのはいつもの僕の文章なので、この辺りでやめておくけれど、20年代の終わりに向けて、YouTubeを視ないようにすることでようやく僕は、自分の歩き方が少しだけ見えた気がしている。

アルバイトの帰りに金沢駅に立ち寄った際に、何か暇つぶしになる読み物を買おうとキヨスクで本を選ぶ事にした。大半が適当に仕入れた文庫や新書で、その中の新刊の新書に目を留めた。慶應義塾大学教授で行動遺伝学者安藤寿康先生の「遺伝子の不都合な真実」である。

見つけた時は「?」と思ったが、元々科学少年だったのと、両親が学者なのになぜ自分は凡人なんだろうという疑問もあり、単なる暇つぶし用に興味半分で買って帰った。

最初は「不都合は別にして、遺伝子の真実って何?」と思いながら読み始めたが、読んでビックリ玉手箱である。人のすべての能力が何かしらの影響を親からの遺伝から受けているというのである。

もちろん親からの遺伝形質をそっくりそのまま受け継ぐ訳では無いらしい。兄弟数人で育った人は実感があると思うが、兄弟それぞれで似ている部分もあれば似ていない部分もある。要するに親からの遺伝をシャッフルした形で受け継ぐのが遺伝の仕組みだ。

すべての能力が遺伝の影響を受けているとはどういうことか?それは心理面や学業成績、知能や運動能力、お金を稼ぐ能力まで遺伝の影響を受けているという事である。

それを調べるのが双生児法と呼ばれる研究手法で、一卵性双生児と二卵性双生児の遺伝形質の発現の差を統計的に調べるやり方である。もちろん科学的に十分信憑性のある研究手法だ。

人間の遺伝形質の発現は、共有環境(家庭環境)と非共有環境(学校や会社等の社会的環境)、そして遺伝子の影響を受けている。能力や形質によって違いはあるが、どの能力や形質も確かに遺伝子の影響を受けているのだ。

身体的特徴や運動能力は遺伝の影響が大きく、知能や学業成績は半分程度親からの影響がある。これには十分過ぎるほど納得がいった。

安藤寿康先生の主張というか研究結果は、環境からの影響も見過ごせないけど、努力では如何ともし難い部分もあるからね、という事だ。

これに希望を見い出すか絶望してしまうかである。

学者の両親から生まれたのに凡人として育ってしまい(平均への回帰という)、なぜか心の病になった自分でも、何だか自分の人生や存在が大事に思えるし、人と比べてどうこう言う問題ではないのではと思っている。

安藤寿康先生の新書の結びには、誰もが社会的に生きていける能力を会得できる環境を作ることが教育の責務だと書かれていて、それには納得がいった。

要するに人は遺伝子の働きと環境からの影響を合わせた形で能力を発揮する。

自分の想像では、ある時ひょっこりと意外な能力を発揮する環境に行き当たることもあるのではないか。そう思えたりもするのだ。

遺伝子からの影響がどうであれ、人の一生は一生である。その人なりの努力をして納得がいけば、それで十分だと思う。

自分の感慨は別にして、身体的特徴や運動能力が遺伝するのなら、知能や学業成績、心理面や経済状況すら遺伝の影響を受けているという研究結果を導き出したのが、双生児法による行動遺伝学なのである。

科学って身も蓋もない結論を冷静に出すのねー。とも思えるが、その人自身の生きる態度まで縛る事は不可能だ。なるべくなら遺伝子を味方につけて?