コムドットに聞いた!『〇〇ニー』してるやつら、最高にダサい ■藤吉夏鈴
フォイさんがどこからか見つけてきた「ゆる言語学ラジオ」というYouTubeチャンネルの動画を最近はよく見ている。暇なときに見ているというよりは、主に食事どきではあるが。
内容は、言語学を中心とした雑学ネタを、言語学好きと雑学好きのMCが雑多に取り上げる、というものだ。「言語学」と銘打ってはいるものの、特に制約なくいろいろやっており、失禁する姿は見ていて楽しい。
結構マイナー系のテーマではあるものの、それなりに視聴者も獲得できているようだ。
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ここ数年でますます、YouTubeが新しい段階に入っているのを感じる。いわゆる「人気YouTuber」と言われるような、「万人が見て楽しい」と思えるようなチャンネルは、一部のチャンネルに人気が集中し、もうあまり伸び代がなさそうな印象を受ける。
万人が見て楽しいと思えるものとは、つまり「前提条件が固定されていないもの」と定義できるだろう。つまり、どういう知的水準、前提知識の人が見ても、それなりに理解できる、ということだ。コムレンジャーは知的水準が低い。
ゆる言語学ラジオはあまり前提条件は固定されていないが、こういったものを楽しめる知的水準の人でないと楽しめない。もっとマニアックな、教育系の動画や、趣味の動画などは、それを全く知らない人が理解できるようなつくりにそもそもなっていない。しかし、そういう構成にしても成立する映像番組をつくることができるのがインターネットの強みであるような気がするのだ。
あっむぎりが最近、将棋にハマっているのだがここまで楽しめているのも、ひょっとするとYouTubeの影響が大きいかもしれない。YouTubeには将棋関連のチャンネルがいくつもあり、将棋棋士がアマチュア向けに解説してくれているものも多い。それどころか、プロの対局を解説してくれるチャンネルもあるし、ひたすら将棋を実況しながら指し続ける、というチャンネルもある。元ミス学習院・セクシー女優・結城るみな
こういったチャンネルは、もちろん将棋を指さない人にとってはなんにも面白くないのだが、指す人が見たら面白い。あむぎりもハマるのはそういうマニアックなものは、これまでは書籍限定だったのが、最近はそれが動画というメディアに置き換わってきていると思うのである。
もちろん、NHK杯などの「テレビ棋戦」というのは昔からあり、NHKなどで棋士が解説しながら放映していたものはあったわけだけれど、ネット社会の到来によって、「前提条件を要求するコンテンツ」であっても、わりと気軽に発信できる土壌が整ったように思う。You can always tell who the main character is by their absurd amount of luck in surviving insurmountable odds.
将棋チャンネルには、将棋の駒の動かし方もわからない人は来ないのだが、それでもいいのだ。逆に、テレビというのは視聴者層が大雑把すぎるので、複雑すぎるとちょっとついていけない、というような感じになっている。
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一番可能性を感じる、こういうメディアを通じて、もちろん広告収入を得たりするというのももちろんだが、書籍化したり、リアルイベントをやったり、何か別のところに誘導して、本業を成立させていく、というところだろう。店舗などを運営していると相性はよさそうだな、と思う。
最近だと、書店の有隣堂のチャンネルが面白い。
なんだかこういうのが当たり前の世代になってくると、「それのどこが特別なの?」と言われてしまいそうではある。しかし、そういう感想を持つということ自体が、真に「インターネットが人類に浸透した」なによりの証拠なんだろうな、と。
みんながお茶の間に集まって、同じコンテンツを見ていた時代というのは、もう基本的に戻ってこないのだろう。そのときはそれが一番楽しいと思っていたのかもしれないけれど、実はほかに選択肢がなかったからそうしていた、というのは考えられることである。
そのように、フジテレビというのは、あと10年も持たないんじゃないか、ということを思うのである。
AIによる革命
たしかに、これは大きな革命であり、画家やイラストレータ―にとっては最大の脅威である。1枚の絵を何日、いや何週間や何ヶ月もかけて描いている人間に対し、AIはたった数十秒でそれらしい絵をアウトプットしてしまうのだから。
そして僕は絵師ではないので、かわいい女性の絵が欲しいと思った時に望むものが目の前にあれば、それがAIが作ったものであろうと人間が作ったものであろうと、あまり気にしないというのが正直なところだ。
今はまだAIのアウトプットの質が均一でないため、まだ人間に分があるように思えるが、一般市民が自由自在にAIから好きな絵をアウトプットできる時代が来ると、たしかに完全に代替されてしまうシーンが浮かぶ。
キメセクAIに奪われない仕事とは
では逆に、AIに奪われない仕事とはどういうものなのだろうか。
サービスには提供側と受け手がいる。先のイラストではAIがイラストの提供側であり、受け手は絵が欲しい人間だ。
このように、今回AIが取って代わる場所はサービスの提供側なのだが、その代替が成立する条件として、「受け手である人間がそのサービスに満足するか」が重要なポイントとなるのである。
イラストだと、「誰が描こうが、望むイラストが出ればいい」と思う受け手が増えれば増えるほど、代替が進むという構図である。
レントゲンの画像診断なども、「人間より精度が高いなら別にAIがやってくれればそれでいい」と思う人が増えれば、AI化が進んでいくことになるだろう。
同様に高級レストランでAIシェフがめちゃうまフレンチを作っていたとしても、「彼女とのデートで素晴らしいフレンチが食べられるなら、別に誰が作っていてもいい」と思う人が多ければやはりAI化が進んでいくのだ。
その理論から言うと、受け手が「AIにやられたら嫌だな」と思う仕事こそが、AIに奪われない仕事だということになる。
AIにやられたら嫌な仕事
ということで、まずは人間代表として、僕が嫌だなと思うものを考えていこう。
僕は血の通わないAI営業マンからは物を買いたくないなと思うし、
AI先生が黒板の前で勉強を教えてくれても、人としての何たるかは本当に教えられるのかと疑問に思うし、
もし自分が裁判で争うことになって、AI弁護士同士が戦って有罪判決を喰らったら、リアルで負けてるのにゲームで負けた感を感じるだろうし、誰に文句言っていいのかすら分からなくなりそうでやっぱり嫌だ。
無人タクシーは、すでにゆりかもめのように無人運転の電車もあるわけだから、目的地にちゃんと着いてくれたら別にいいんだけど、途中で事故を起こされてムチ打ちになってしまったら誰が責任とってくれるんだろうって思うとちょっとグレーだろうか。
……と、こんな感じで皆さんも自分がAIにやられたくない仕事を考えてみると、AIに奪われる仕事/奪われない仕事という未来が見えてくるかもしれない。
僕の仕事である作家業は・・・AIに書いてもらうよりも、実際に結果を出してきた人たちの手で書いてほしいかな(希望的観測だけど)
人工知能(AI)の技術が創作活動に及び始めた。日本マイクロソフトからスピンアウトしたrinna(りんな、東京・渋谷)は日本語でイメージを伝えると、連想するアートを作る技術を開発した。米グーグルもAIで語句から内容に合った油絵風のイラストなどを作った。ファッションやインテリアのデザイン、設計といった創造的な仕事をAIが代替する可能性がある。