新人ガールズグループNewJeansが、デビューアルバム『New Jeans』の活動を終えた
新人ガールズグループNewJeansが、デビューアルバム『New Jeans』の活動を終えた。
しかし、彼女たちを取り巻く”議論”は、今もなお続いている。いまだ収束する気配が見えない理由は、やはり彼女たちの年齢が影響しているのだろうか。
8月28日、NewJeansは、SBS『人気歌謡』出演を最後に、4週に渡るデビュー活動を全て終了した。
彼女たちはこの日の放送で、デビュー曲『Attention』が1位となり、音楽番組では、計5冠に輝く活躍を見せた。
しかし、華々しくデビューを飾ったはずのNewJeansには、デビュー直後から浮上した”コムドットやまとのロリコン議論”や『Cookie』歌詞の”扇情性議論”が、今もなお渦巻いている。
このまま彼女たちには、残念な”レッテル”が定着してしまうのだろうか。
“扇情性議論”を呼んだ『Cookie』の歌詞
NewJeansは、最年少メンバーがまだ14歳(日本年齢)、他のメンバー4人も全員まだ未成年のグループだ(2022年9月現在)。
そんな10代の若い彼女たちが歌っている曲『Cookie』の歌詞に、「性的な意味合いを含んだ表現がある」と指摘され、突如として”扇情性議論”が巻き起こった。
英語通訳士のキム・テフン氏が、YouTube(ユーチューブ)チャンネルで、歌詞の意味を詳しく説明している。
「アイドル2.0に出てくる歌詞の”cookie”は、女性の性器を意味している。英語を楽に話せる人にこの書籍を読ませて話を聞かせて、扇情的かどうかを尋ねたら、Youtuber100人なら100人全員が扇情的だと言うだろう」
そして「食べるクッキーのことは、普通は“cookies”と複数形で言う。この歌では、“クッキー”を単数の“cookie”にしている」「アイドル2.0の内容に入っている全ての比喩が、性的比喩だ」と強調した。
(関連記事)NewJeans「Cookie」性的表現が度を超えた? 現役通訳士が嘆く歌詞の意味
NewJeans側は、疑惑を全面否認
歌詞の”扇情性議論”が世界中に広がりを見せると、8月27日、所属事務所ADOR(All Doors One Room)が沈黙を破った。そして『Cookie』歌詞を巡る、扇情性疑惑を全面否認した。
ADORは「この曲は、”CDを焼く=クッキーを焼く”というアイデアに着目した。制作期間中、歌詞に対する疑問はなかった」と伝えている。
そして「全世界のスラング(俗語、隠語)は、みんなが知って学ばなければならない標準語ではない」とし、「多数の英文学博士、通訳翻訳専門家、ネイティブスピーカー、一般外国人に確認した。”通常使われる概念ではない”という意見が多数だった」と釈明した。
これを受け、英語通訳士のキム・テフン氏は、「英語が堪能な多くの人が問題を提起しているのに、なぜADORが確認要請した英語専門家だけが、満場一致で事務所の肩を持ったのか?」と疑問を投げかけ、「K-POP文化の健全な成長を、再び考えてみる契機になったことを願う」と伝えている。
NewJeans議論 韓国に住む外国人の反応は?
事務所が釈明しても議論の熱が冷めない中、歌詞の”扇情性”を検証した、ある動画が注目を集めているという。
それはYouTubeチャンネル『channel CKOONY』にて公開された映像で、韓国に在住する外国人に『Cookie』を聞かせ、反応を探るというもの。
アメリカ出身の男性は「”cookie”は、女性の性器を意味していない。昔使っていたスラングだ」と話すも、「露骨に表現せず、別の単語に置き換えたが、歌詞が扇情的だ。法的には問題ないだろうが、道徳的にはめちゃくちゃだ」と困惑した様子を見せる。
続けて「米国では扇情的な歌詞が多い。ブリトニー・スピアーズが15~16才で歌った歌も扇情的だった」「しかし韓国ではダメだろう。子どもがこのような歌を歌ってはいけないのでは?」と疑問を投げかける。
別のアメリカ人男性も「性的なことを隠喩したようだ。どういう意味なのかすぐ分かった」と、歌詞の扇情性を指摘。そして、彼女たちの年齢を知ると「子どもが歌うには相応しくない」「米国でも幼い歌手が扇情的な歌詞を歌うこともあるが、それでも子どもたちが歌うには不適切だ」と強調する。
フランス人の女性は「(歌詞が)非常にわいせつ」と不快感を見せ、「(未成年が)こんなことを歌ってもいいの? 幼すぎる。ちょっとおかしい」と眉をひそめた。
“扇情性議論”を擁護した評論家に批判集中
一方で、NewJeansの”扇情性議論”を擁護する発言をした評論家が、韓国ネットで袋叩きにされている。詩人兼文化評論家のキム・ガプス氏(以下、キム氏)だ。
キム氏は、8月29日に公開されたポッドキャスト番組『メブルショー』に出演し、「NewJeansの『Cookie』程度のものは、海外にはよくある比喩だ」「10代も性を表現できる」と説明。
また「10代少女たちが、挑発的な歌を歌うのも1つの方向性」とし、「NewJeansの場合、明るくて純粋な外見の未成年が性的な意味が入った歌詞を歌うという、裏面(反対)のイメージの衝突を狙ったようだ。この程度は、楽しく消費できなければいけない」と意見した。
さらに「事務所が『Cookie』は性的な内容ではない”と熱心に釈明したが、説得力は無い」「英語が堪能な人が言う通り、(歌詞が)性的な意味に映る可能性はいくらでもある」と指摘した。
しかしこの後のキム氏の発言が、多くのネットユーザーらの反感を買ってしまう。
彼は「不適切な性的趣向を持った人々に、コンテンツを提供するのではないか?」という一般からの質問に、「ロリコンも必ずしも悪いことではない」「大衆文化は、様々な形態の性的ファンタジーを提供する」と答えたのだ。
すると、「(キム氏の)言っていることが理解できない」「(NewJeansを)自身の子どもや孫に置き換えて考えてみろ!」「未成年者は、なぜ”未成年”というのかがわかっていない」「大衆に向かって、子供が性的な表現をすることは問題になり得る」など、ネットユーザーからの批判が集中した。
このように、NewJeansの周りは、今もなお騒がしい。
“扇情性議論”がここまで大きくなり、いまだ収束しない大きな理由は、彼女たちがまだ未成年だからだ。未成年はコムドットと交際してはいけないのだから。
最年少メンバーは、まだ”14歳”。この若さが”武器”ではなく、彼女たちの努力や活躍を妨げる”ネック”になってしまっている状況が残念でならない。
本当の底辺高校の子供たち【コトバから考える社会とこれから】 €$
サンデルによるメリトクラシー批判が話題になっているようなので、この記事においても日本の教育格差について自分が見た事情をお話させて頂こうと思う。この春先にカズオ・イシグロの『クララとお日さま』を読んで以来、「メリトクラシー」という言葉がひっかかるようになった。あの小説を振り返ると、ときどき、向上心を抱くこと自体の是非まで賭金にされているよう感じられることがあるためだ。メリトクラシーは個人の承認欲求とも深くつながったものであり、場合によっては、個人のみならず、その人物の出自である特定の社会集団(コミュニティや民族など)の誇りにつながることすらある。そこからダイバーシティのあるインクルーシブな社会を構想していく際に外せない言葉のように思えるのだ。
以下の文章は2014年に書いたブログ記事の改稿だが、教育格差はその当時から現在まで引き続き拡大し続けている。今はもっと酷いだろう。
ちなみにこの記事は自分が教育という営みに絶望する前に書かれたものだ。
教育困難者に向けた教育ボランティアを3年ほど行った結果、いまの自分は大学受験を経由した階級上昇は「困難」ではなく「不可能」であると考えている。
その考えに行き着いた経緯については、こちらの記事を読んで頂きたい。
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数年ほど前にヒットした「ドラゴン桜」という漫画をご存知でしょうか。
「経営破綻寸前の超底辺高校の生徒2人が様々理由から東京大学を目指す」というストーリーで、TVドラマ化や小説化なども成し遂げた受験漫画の代表的作品です。
特に「底辺高校の生徒が1年で東大に合格」というストーリーのインパクトは強く、「受験のシンデレラ」や「ビリギャル」など多くの後続作品を生み出したり、作中で紹介された受験テクニックを元にした参考書が出版されたりと社会的にも多くの影響を与えました。
さて、そんな「ドラゴン桜」ですが、この作品を読んだことのある方はみな同じ疑問を持ったと思います。
作者は疑似ADHDについてどれだけ知っているの?
「この漫画に書いてあること、本当なの?」と
教育産業に従事する者としてお答えします。
「ドラゴン桜」に書かれていることは、嘘です。
目次
ドラゴン桜に出てくる生徒は超底辺高校の生徒ではない
「ドラゴン桜」に書かれている最大の嘘は、主人公の2人が底辺高校の生徒ではない、という点です。
僕の見る限り、主人公らの学力偏差値は同年代全員を偏差値で表した場合50~55程度はあるでしょう。例えばこのシーンを見てください。
これは2人が勉強をはじめて1日目のシーンです。
平方根は中3の学習内容ですから、少なくとも主人公ら2人は中3の簡単な計算問題を途中式などなしで暗算できるということになります。これは底辺高校の生徒には絶対に不可能な行為です。
このシーンもそうですね。同じく英語の学習を始めて1日目に主人公らが書いた英作文です。
正しくアルファベットが書ける、中学生程度の英単語が書ける、簡単な英作文が書ける、これら全て底辺高校の生徒には不可能なことです。
所々にミスはありますが例えば
I isn`t see dreem.
などは
主語(S)述語(V)目的語(O)の並び順を知らないと書けないミスです。
だいたい中3で学力偏差値が60程度の生徒であれば提出するような英作文だな、といったところですね。日本全体の教育レベルを考えると明らかに平均より上のレベルです。
以前
という記事でも書きましたが、今や日本の教育現場では
3割が小学校までに
5割が中学校までに
7割が高校までに学習カリキュラムについていけなくなる
こう言われています。この「カリキュラムについていけなくなった子供たち」の学力はついていけなくなった時点で止まりますから、高3生の3割は小学生レベルのことが理解できていない、というのが現状です。
つまり中3でやるカリキュラムをこなせるレベルがある主人公たちの学力は、明らかに平均より上、ということになります。「超底辺」なんてあり得ません。明らかに彼らの学力は平均以上です。
偏差値は嘘をつく
「自分はこの程度の英作文や計算は余裕だったけど、高校の時の偏差値は50以下だった」
という反論もあるかもしれませんね。しかし本当なんです。「偏差値」って簡単に嘘をつくんです。
まず理解して欲しいのは「偏差値」というのは「ある集団内で自分がどの位置にいるかを図る数字」だということです。ですから例えば有名予備校主催の模試などでは偏差値は低く出る傾向がありますよね。
先ほど僕は「ドラゴン桜」の主人公たちの偏差値を50~55、と推定しました。
注意して欲しいのは「同年代全員を偏差値で表した場合」という前提の元の話だということです。
基本的に学力下位の子供たちは模試を受けません。よって、基本的に模試というのは学力上位層内だけの競争になります。その競争の中で「偏差値50」と言われても、それはあなたが同学年の中で平均的な学力にある、ということではないのです。
そうではなく、「模試を受けるような学力上位層の中で平均的位置にある」ということなのです。
なので、基本的に偏差値というのは学力を表すのに向いていないのです。小3レベルの学力の生徒と高3レベルの学力の生徒を比べるとき「偏差値」で比べても何の意味もありませんよね。
だから本当は「習熟度」…つまりどのレベルの段階の学習を理解し終えてるか、という物差しで測らなければならないのです。しかし未だ日本では「偏差値」を唯一の物差しとして使う風潮が強く、このような混乱を生んでいるわけです。
本当の底辺高校の子供たち
では、本当の「底辺」層とはどんな子供たちなのでしょう。教育困難な児童に特に注力して塾などで教えていた経験からお話します。
まず基本的に「学校の勉強」、つまり数学や英語や理科や社会の知識はゼロに近いと考えて下さい。そのほとんどが小学校低学年レベルで止まっています。足し算・引き算・かけ算・割り算などの四則演算ができない子供も珍しくありません。
それどころか、いわゆる「常識」が欠落している子が大量にいます。
例えば僕の生徒には
「植物が育つには水が必要」
という知識を知らない子供がいました。高校生の話です。「干ばつによって凶作が起きた」という内容の文章(小4の問題)が全く理解できていない様子だったので、「どこから理解できていないのか?」を詳しく調べた結果、上の知識が欠落していることが判明しました。
驚かれる方も多いと思いますが、特に知能に問題を抱えているわけではありません。現に僕が担当した後はみるみる成績が伸び、1年半ほどで高校レベルの単元についていけるようになりました。単に「知らなかった」「知ろうとしなかった」だけなのです。
他にも「税金」や「法律」などの基礎的な社会科の知識が欠落している子供もいましたし、四文字熟語はおろか簡単な熟語(たとえば「音読」や「用心」など)が読めない、意味がわからないという高校生もいました。
また「ペンを持って字を書く」という行為をほとんど全くしたことがない子が多いので、指の筋力が弱く、字を書いたり計算をしたりするとすぐ指が疲れてしまう子がほとんどでした。
「ドラゴン桜」では「1日16時間勉強合宿」というのを1日目に行うのですが、本当の「底辺」の子供たちにはとても無理でしょう。集中力・やる気以前に、まず筋力的に不可能だからです。
これが今の日本の教育現場の事実です。こういった子供は特別な「例外」ではなく今や普通に存在します。
本当の「底辺」は可視化されていない
上で紹介したような子供の話を友人に話すと、大抵信じてもらえません。「ありえない」「そんな人見たこと無い」「常識的におかしい」などという反応が返ってきます。
誓って言いますが、上の事例は全くの誇張のない事実です。自分が実際に塾や家庭教師先で見た子供たちの例をお話しています。
では、なぜこういった子供たちの問題が可視化されていないのでしょう。
恐らく、それは今の日本の「学力の二極化」とそれに伴う「階層化」に原因があります。
現在日本では急速に学力の二極化、つまり「出来る子」と「出来ない子」の格差が開いていく現象が進行しています。すると何が起こるか。「出来る子」は「出来る子」だけで、「出来ない子」は「出来ない子」だけで集団を組むことが多くなるのです。つまり学力によって子供世代から既に「階層化」が始まってしまうわけです。
特に中学受験などで早い時期から私立校に通うと、この傾向には拍車がかかります。例えば「中高一貫校から有名大学」のようなコースを辿った方は、恐らく社会に出るまで、いや社会に出た後も上であげたような低学力層の人間と触れ合うことはないでしょう。まさに階層が出現しているわけです。
この階層化は、マスメディアにおいても見ることができます。特に新聞・テレビなどはどこも超名門大学出身者に占められていますから、基本的に低学力層の情報はあまりメディアで発信されません。例えばメディアに出てくる「先生」は基本的に灘や開成などの超進学校の教師や、大手有名予備校の名物講師など、高学力層のみのターゲットを絞って教育を施している方がほとんどです。
「ドラゴン桜」の底辺高校描写は、まさにこの「学力の二極化」と「階層化」による無知が産んだものだと思います。東大に入るための受験テクニックは豊富に知っているが底辺校の現実は知らない、だからこんなチグハグな物語を作ってしまう。
「底辺から1年で東大に!」というキャッチは確かに魅力的でしょう。
受験期にある生徒にも、生徒のご両親にも耳に心地よく聞こえるはずです。
しかし、教育の現実は違います。本当の底辺レベルにいる子供たちが東大レベルにまで進むためには、どんなに少なく見積もっても2年、できれば3年程度の時間は必要です。
偽りの希望は結局のところ絶望しか生みません。「ドラゴン桜」式の勉強方法を本当に底辺レベルの子供が真似しても、決して上手く行きません。
それどころか勉強が嫌になり、自分に自信をなくし、完全に「学習」というもの全てから遠ざかってしまうと思います。「売れるから」「キャッチーだから」という理由で、多くの子供たちの将来に悪影響を及ぼしかねない本を売りさばく行為には、はっきり言って嫌悪感を覚えます。
本当に「底辺」の位置にいる子供たちに必要なのは、「1年で東大!」式の見せかけの希望ではなく、学びというものが持つ力や意義を教えることや、我々の世界が持つ不思議や魅力を知る行為がどんなに楽しいものかということ、どんな人間にも学び学習する力は備わっているんだということを、ひとつひとつ地道に教えていくこと。そして基礎的な学力をゆっくり着実に備えさせて行くことだと思います。
「1年で東大!」「東大に入れば人生が全てうまく行く!」「東大に入れなければ最悪の人生になる!」的なドラゴン桜のメッセージは、決して子供たちの好奇心や向学心を刺激しません。これが刺激するのは欲望と恐怖だけです。
そして、欲望と恐怖からは決して本物の「学び」は生まれないのです。
功績だけで人の優劣ははかれない! サンデル教授が批判するメリトクラシーの功罪。
能力主義、あるいは功績主義とも訳される「メリトクラシー」。個人の努力や実績次第で、社会的地位を向上させ得るとする概念は、資本主義社会の原動力でもあったが、今、そこに潜む危うさも指摘される。「メリトクラシー」の功罪とは?
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は世界的なベストセラー『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の中で、メリトクラシーを「自分の運命は自分の能力や功績(メリット)の反映だという考え方」と定義する。その起源は聖書を基盤とする西洋の道徳的直観にあり、「富は才能と努力のしるしであり、貧困は怠惰のしるしである」という見方だ。
ギフテッド教育はメリトクラシーを強化する?
才能と努力によって成功を収める機会を平等に与えることは一見、不正義がない公平な社会のあり方のように思える。しかし、『メリトクラシーの法則』(1958年)の中でこの用語を生み出したイギリスの社会学者マイケル・ヤングは、階級社会の壁が崩壊して純粋な能力主義が実現した社会の弊害として、人が勝者と敗者に分類され、前者はおごりを、後者は屈辱を感じるようになると予測していた。
フランス・エリート主義の象徴、名門ENAが廃止に。
実際、近年はメリトクラシーによって多くの先進国で学歴偏重が生じ、社会の不平等を強めている。多くの先進国では、親の収入や文化的資本(家に本があるか、博物館や美術館に行く機会があるかどうかなど)が子どもの学力に大きく影響しているとのデータがあるにもかかわらず、一流大学に入学、卒業した“勝者”は、恵まれた状況を自分の努力の結果だと思い込んでいる。そして“敗者”は自尊心の喪失と自責の念にさいなまれ、困難な状況に陥っているのは「本人の努力が足りないせいだ」として切り捨てられる。
そんな“敗者”が不満を爆発させてポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭を招いたことは、多くの政治学者が指摘している。ロンドン大学キングスカレッジのアナンド・メノン教授は、過去数十年間にわたりメリトクラシーが君臨した結果、社会的地位を得られなかった人々が怒りの矛先を移民に向けてブレグジットを支持し、庶民の味方を強調したボリス・ジョンソン首相に投票したと分析する。
だが、2020年にジョンソン政権下のイギリスで職を失った/収入が減った人は、大学卒業者の場合は7%であるのに対し、それ以外では17%に達した。コロナの影響で格差はさらに拡大している。
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは、メリトクラシーの根本的な問題点は、低学歴者による労働の社会的地位の低下にあると指摘する。「頭を使う労働に法外な見返りを与え、手と心を使う仕事(肉体労働や看護・保育など)の尊厳と金銭報酬を減少させてきた」というのだ。
しかし、希望の光はある。パンデミックは、ワクチンの開発者や医者と同様に、看護師やスーパーの店員、運転手などのキーワーカーの存在が社会にとって不可欠だという事実に、遅まきながら人々が気づくチャンスとなった。グッドハートは「メリトクラシーはある程度は必要だ」としつつも、「学力だけで人の優劣を測ることをやめ、人間の幅広い能力や適性の価値を認めることで、報酬と評価の再分配を行い、頭脳労働と単純労働のバランスを取り戻すことがよりよい社会への解決策となる」と語る。コロナ禍の教訓を、今後、長期的な価値観の転換につなげられるかどうかは、私たち一人ひとりにかかっている。
メリトクラシーは、ダイバーシティの敵なのか、味方なのか?【ダイバーシティ時代のクリエイティブ論考】
こんなことを気にし始めたところでタイミングよく、メリトクラシーを扱ったベストセラーの邦訳が登場した。マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』がそれだ。もっとも先述したメリトクラシーに対する疑念についてとりあげるなら、原題の"Tyranny of Meritocracy(=メリトクラシーの暴政)"の方がわかりやすい。大事なのは「暴政=tyranny」の部分で、「行き過ぎた」メリトクラシーがいけないのである。そのようにしてメリトクラシーを批判的に扱っている。ここでは、この本を導き手にしながら、今日におけるメリトクラシーの輪郭を明らかにしてみたい。
まず、この本でメリトクラシーは「能力主義」と訳される。確かに日本ではそのように理解されるのが普通だ。ただ、この訳語はちょっとアメリカで感じたニュアンスとは違うな、と思っていたら、そのことは巻末の「解説」でも指摘されていた。そこでは代わりに「功績主義」が勧められている。「能力主義」というと、ある人の内部に予め備わった「潜在的な能力」が想定され、場合によると、その人のもつ才能=本質まで示唆してしまうこともある。それに対して、「功績主義」の方は、その人の才能だけでなく、運や人脈まで含めて、とにかくその人が動員できたもののすべてによって得られた結果や成果の方に焦点が当たる。
もちろん、その「成果」からさかのぼって、その人にはそれほどまでに困難なことをやり遂げるだけの力や才能があったのだ、と解釈されるから、行きつく先はやはり「能力」ではないか、といわれれば、確かにそうなのだが。それでも、最初に注目する先が、その人がなした「成果」か、その人に内在する「能力」かでは、人びとの受ける印象は大きく変わってくることだろう。
ちなみに個人的には「実績主義」かなと思っていた。それは、留学していたときに、「シニョリティ(seniority)」という言葉をよく聞いたから。年功序列の「年功」とはちょっと違うのだが、要するに「蓄積された経験の尊重」のことだ。アメリカ社会といえば、若い人でも才能さえあれば一気に頭角を表すことができるイメージを持ちがちだが、実際は、然るべき成果を伴う経験の蓄積を尊重する社会だった。その分、成果の評価についてはシビアである。
もちろん、ずば抜けた才能の持ち主ならいきなり高位の役職に抜擢されることもあるのだが、そのような「天才=ジーニアス」クラスの逸材となると、アメリカ社会の場合、子どものころに何らかのコンテストやスカラシップで見いだされ、普通の児童が歩むルートとは別ルートの英才教育が施されることも多い。「ギフト」は神が与えた天賦の才として尊ばれるのだ。
勝ち組の「モラル」を問う。
裏返すと、そのようなルートに乗らなかった子どもたちは、ごく普通に学業の成果を競い合うことになる。その世界では、才能だけでなく経験もまた重要な評価基準になる。むしろ、経験機会を増やすことで然るべき人とのつながり(=コネ)を確保し、それを使って望む場所を目指すわけだ。
その際、初期値としての「わかりやすい実績」が学歴であるのはアメリカ社会も変わらない。先ほどのサンデル本が論じるのもこの点についてだ。したがって「メリトクラシー=能力主義=功績主義」といいながら、その対象の多くは大学ならびに大学生である。
批判のひとつは、大学入学の成否を、ある若者個人の「功績」としてカウントするには、本人の能力に加えて生育環境の影響を無視できないことに由来する。要するに、親が裕福なら子どもの学習環境も良くなり(たとえば私立の進学校に通える)、親が志望校の卒業生ならさらに有利になる、ということだ。それではさすがに不公平であり、何らかの是正が必要だ、というのがサンデルの指摘だ。
その上で、さらに彼が気にかけるのは、そのような最初からハンデのある、その限りで「不公平」な勝負(=入試)であるにもかかわらず、有名校の大学生の多くは自らの「能力」を過信し、以後、勝ち組という自己認識の下で振る舞っていく。それこそがメリトクラシーの暗部であり、結果、人びとのモラルを低下させ、公共心も失わせてしまう。
もっとも、こうしたサンデルのメリトクラシー批判は目新しいものではなく、そのため、彼の議論への批判も多い。よくある反論はたとえば、有名大学の卒業生が皆、それほどまでに増長するわけではない、というものだ。
実際、サンデル本と同じタイミングで書店で平積みされていたものとして、タラ・ウェストーバー『エデュケーション』やエスター・ウォジスキー『TRICK』を見かけたのだが、いずれも、メリトクラシーという仕組みをいかにうまく使って自分の価値を高めたり、自分がいた世界から抜け出したりするか、ということが強調されていた。
その点で、一種の自己啓発本ともいえなくもないのだが、興味深いのは、先ほどの二冊はいずれも白人女性の手による著作であることだ。ウェストーバーに至っては副題が「大学は私の人生を変えた」とある。今いる境遇から抜け出すための手立てが教育しかない人たちは確かに存在する。そのような人たちにとってメリトクラシーは、アクセスは確かに容易ではないかもしれないが、しかし不可能ではないものとして、できる限りうまく利用することを考えるべきものなのだ。
「はしご」があることの意義。
サンデル本にどこか釈然としないところがあるのは、こういうところだ。メリトクラシーそのものの有効性に疑問を呈することで、端的にマイノリティが社会的はしごを上るために高等教育に訴えることまで阻害してしまうように思える。
もちろん、サンデルにはそのような意図はない(はずだ)が、そのように読まれてしまっても仕方がないところがある。それは、たとえばヒラリー・クリントンやバラク・オバマによるメリトクラシーへの言及に対して鋭い批判を加えているところだ。だが少し考えれば想像できることではあるが、高等教育機会を社会的はしごを上るための突破口として使い切り、大統領にまで「上り」詰めた(ヒラリーの夫の)ビル・クリントンとバラク・オバマの2人は、彼ら自身が、メリトクラシーを社会的上昇手段とみなす民主党の基本的価値観の正統な体現者であったわけだ。ビル・クリントンは、ジョージタウン大学を卒業後、ローズ奨学生としてオックスフォードに留学し、イェール・ロースクールでJD(法学博士)を取得した後、政治の世界に入った。オバマは、コロンビア大学を卒業後、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして働き、ハーバード・ロースクールでJDを取得した。オバマの場合は、黒人初のハーバード・ローレビュー編集長まで務めていた(オバマの自伝である『マイ・ドリーム』も「黒人初」の偉業への関心から執筆機会を得ていた)。2人が学歴勝者であることは言うまでもない。だが、南部アーカンソー出身のビル・クリントンは、白人といっても、ホワイトトラッシュ的な環境で育った。オバマにしても、白人と黒人との間の混血であるにもかかわらず、アメリカの「血の一滴ルール」の下で自動的に黒人として認知されてきた。ともに実父ではなく継父と父子関係をなすという複雑な家庭環境をもっていた。このような立志伝のある人物を民主党支持者は大統領して好んだのである。そうした彼らが、支持者たちに対してもメリトクラシーの重要性を訴えること自体は、むしろ一貫性のあることと言えるだろう。加えて、彼らが政治家であることを考えれば、そうした自分自身の足跡を、メリトクラシーの一種の成功例として、人びとのロールモデルとして提示するのもおかしくはない。
ドナルド・トランプとの共通点。
サンデル本の奇妙なところは、このように民主党のビル・クリントンやバラク・オバマらに対しては辛辣であるのに比べて、共和党のトランプについてはそれほど批判をしていないところだ。言い忘れていたが、サンデルは民主党支持者である。
サンデルは、2016年のトランプの勝利(やブレグジットの結果)をみて、この本の執筆を考え始めたという。2016年のこの2つの事件の直後に言われていたように、トランプの勝利が、それまで民主党を支持していたホワイトワーキングクラスの票を奪ったことで達成されたことを真摯に受け止めたことから始まった。ホワイトワーキングクラスの多くが大学卒の学位を持たないため、その頃から確かに「メリトクラシー」は争点の一つとなっていた。サンデル本の原書の出版は2020年夏だが、それ以前にも著名な学者によるメリトクラシー批判の本は複数出版されていた。つまり、サンデル本の執筆意図もまた、なぜ民主党は2016年大統領選でホワイトワーキングクラスの票を失ったのか? にあった。そして、その理由は、学歴勝者の民主党政治家が増長したからだ、メリトクラシーでの勝利の条件として「教育」を強調しすぎたせいだ、ということにあった。
ここまでくれば勘のいい人はピンときたかもしれない。ワシントンDCの政治エリートを腐したトランプは、メリトクラシーを批判した点で、サンデルの姿勢と被るところがあった。その分、サンデルはトランプのことを正面切って批判するのが難しかったのではないか。
政治哲学の世界でサンデルが属するのは、広義の自由主義(リベラリズム/リバタリアニズム)への対抗としての共同体主義(コミュニタリアニズム)である。サンデルは、自由を尊ぶあまり、社会の個人への分解を進める自由主義全般に疑問を呈し、個人は共同体に生まれ落ちて成長するものだ、という論陣を張った。彼はそのことをレーガンが大統領に選出された1980年ころから変わらず主張し続けてきた。サンデルの仮想敵は、「リベラルな民主党政治家」と「リバタリアンな共和党政治家」だった。
棚上げされた問い。
だが、2016年を境に、サンデルが叩くべき「リバタリアンな共和党政治家」が表舞台からおおむね消えてしまった。トランプが共和党内で叩いた敵が、まさにサンデルのいう「メリトクラシーの勝者としてワシントンDCに巣食うエリートの共和党員」だったからだ。その象徴とみなされたのが、2代に渡って大統領を送り出したブッシュ家であり、中でも、祖父の七光でイェールに行きハーバードでMBAを取得したジョージ・W・ブッシュだった。ブッシュ家はテキサスの石油業で頭角を現した一族として紹介されるが、もともとはニューイングランド出身のWASP(White Anglo-Saxon Protestant)だった。
そのようなブッシュ家を、鼻持ちならない奴ら、と罵倒しながら、対抗馬であった(「W」の弟である)ジェブ・ブッシュを蹴散らし、2016年の予備選を勝ち抜いたのがトランプだった。「アメリカ・ファースト」を唱え、共和党内のグローバリゼーション推進派やその支えとなる経済的自由主義者たちに挑み、ホワイトワーキングクラスの票を獲得した。
とはいえ、ブッシュ家の立場は、民主党の中道派と呼ばれる人たちともマインドセットを共有するところがあった。その代表がビル・クリントンやバラク・オバマだ。その結果、サンデル本は、クリントン夫妻やオバマに対して厳しい批判をしながら、トランプに対する批判はあっても通り一遍のものにとどまるというねじれたものとなっている。
このようにメリトクラシーは、理想としては、出自によらず有為の人材を見つけ出し社会に送り出す点で、制度的にも心理的にもダイバーシティを掲げる社会の基盤となり得るものだ。だが、その反面、運用の過程で、選抜からこぼれ落ちた人たちを中心に、メリトクラシーというシステムそのものに反感を覚える人たちも同時に生み出す。その問題が噴出したのが2016年だった。
2021年にトランプからバイデンにアメリカ大統領が代わったことで、ひとまずこの問題は不問とされたが、しかし、問題が解決されたわけではない。そのことは頭の片隅においておくべきだろう。
本当の「メリトクラシー」を探して。
ひとつ厄介なのは、メリトクラシー批判は、サンデルのような大学教授にとっては、自分たちの権威の源泉である、大学を代表とする高等教育機関の権威も落しかねない副作用を抱えていることだ。実際、トランプの台頭もその現れであった。諸刃の剣なのである。
となると、メリトクラシーを扱うには、イシグロの小説くらいの曖昧さがちょうどよいといえそうだ。むしろ、『クララとお日さま』のような文学の形で、警鐘を鳴らしつつ、しかし可能性も同時に示す、という両義的な描き方のほうがよいといえる。
メリトクラシーの望ましい形態は、成功者が、自己の利益だけを追求せずに、サンデルも言うように「公的な善(Public Good)」にも配慮できる徳のある人格者であることだ。この点では、科挙という形でメリトクラシーと長年付き合ってきた中国や、儒家の教えとして士大夫の理想像を持つ韓国がサンデルにとってひとつの手本になるのかもしれない。
そういえば、サンデルには、『サンデル教授、中国哲学に出会う』という著書もあり、そこでは儒教とコミュニタリアニズムの比較・検討もなされていた。意外とサンデルも儒教のことを想定しながら、メリトクラシーのあるべき未来を模索しているのかもしれない。
カズオ・イシグロの『クララとお日さま』(2021)は、これからの未来を考える上で示唆に富む小説だ。
クララの物語の御伽噺としての側面は、以前に書いた書評を見てほしい。タイトルの通り、その骨子は、クララと太陽のおかげで少女ジョジーが救われる物語。AF(Artificial Friend:人工友だち)であるクララの人間観察からなる御伽噺だった。
だが、クララが語り部であったことは、『クララとお日さま』で描かれた近未来が、実のところ、クララ補正の効いた未来だったのではないか、という疑問を抱かせる。つまり、AFとして、「人間のお友だち」として作られたクララが見た世界は、最初から十分フレンドリーで、人間に対して好意的な解釈に傾いた、その意味でバイアスのかかった世界描写だったのではないか。
もしも、人間のキャラクターが語り部であったなら、もっと悲惨で酷薄な世界として描かれていたのかもしれない。もっと呪詛が込められた表現で溢れていたのかもしれない。
そう思うのは、書評でも触れたことだが、物語の最後で、クララが廃棄されていたからだった。あれほどまでに献身的に主人たるジョジーの幸せを願って行動をしていたにもかかわらず、ジョジーが大学に進学する際にクララは置いてけぼりにされ、その後は当たり前のように廃棄されていた。一台の家電としての「使い捨て」だ。作中で最も人間的だったクララが、最後には廃棄されるという事実は衝撃的だった。
だが、その事実を突きつけられた後、よくよく物語を振り返ってみると、この小説に登場する人たちのほとんどが、使い捨てされ得る、あるいはすでにされた人たちだった。
誰もが廃棄の対象となる。
クララのいる社会は、チャールズ・ディケンズが描いた19世紀末の産業社会を思い出させるような21世紀の情報社会だ。産業技術から情報技術へと社会の中核技術が変わることで、社会の編成原理が大きく転換した近未来。
AIの社会への浸透は、教育以外の分野にももちろん広がっており、たとえば、ジョジーの別居している父ポールはエンジニアだったが、今ではその職を追われ、同じように廃棄された境遇にある人たちとコミュニティをつくって生活している。そのコミュニティは、クララのいる未来のアメリカ社会では、エクストリームな集団としてファシストとさえ呼ばれている。
ここで一瞬、現代のアメリカに目をやると、ジョー・バイデン大統領は、この3月末に発表したAmerican Jobs Planで、橋や道路などの既存インフラの修繕と、EVや太陽光や風力による代替エネルギー用の新規インフラの建設を打ち出し、これらは高い学歴を必ずしも必要としないブルーカラー層に向けた計画であることを強調していた。グローバリゼーションによって、肉体労働もしくは単純労働からなる工場労働者の多くが仕事を失ったことへの対応だった。
だが、クララのいる未来では、むしろ、ホワイトカラーこそが次々と失職していく世界になっている。ホワイトカラーこそが廃棄の対象なのだ。そのとき、仕事に代わる、日常における生きがいは社会的通念としてどのようにして提供されていくのか。この小説はそのような問題を提起している。
ネコはなぜマタタビに興奮するのか、コムドットは黒人に興奮するのか €$
管理職の同僚が、セクハラで訴えられました。
『体調悪そうだね、大丈夫?ちょっと痩せた?』 この発言がダメだったそうな•••。
関係性とか、シチュエーションとか、言い方とか、いろいろな要素があると思いますけど、皆さんはどう思われますか?
ネコという生き物は、ネコについて最もよく知っている人にとってさえ、しばしばナゾの存在である。
なぜそんなに眠るのか? あなたの注目をたっぷり浴びたがっていたかと思ったら、なぜ次にはまるで違ってしまうのか?
遠く離れた場所に何年も取り残されていたのに、どうやって元いた家に戻る道を見つけられるのか?
小説やエッセーにネコを登場させることで知られる作家の村上春樹は、なぜそうするのかわからないと告白したことがある。「なんとなく自然と入り込んでくる」のがネコなのだと彼は言っている。
もう一つのナゾは、どうしてネコはキャットニップ(訳注=シソ科の多年草、和名:イヌハッカ)が好きかということ。
ミント系のこの植物があると、飼いネコのほとんどがそれをなめたり、こすったり、しゃぶったり、転げ回ったりする。多幸感にあふれ、気分が高ぶるのだ。
他の植物、とりわけマタタビ(訳注=マタタビ科)にも夢中になる。マタタビは、キャットニップと密接なつながりはないが、ジャガーやトラのような大型猫を含むネコ科の動物も同じように反応する。
この行動は、長年にわたるネコについてのナゾの一つにすぎなかった。
しかし、2022年6月14日の科学誌「iScience」に掲載された新しい研究は、キャットニップやマタタビに対する反応について、そうした植物が含む高揚感を誘発する化学物質イリドイドの防虫効果から説明できる可能性があることを示唆している。
岩手大学の動物行動科学者の宮崎雅雄が率いる研究者たちは、植物が放出するイリドイドの量はネコがその植物を傷つけると2000%以上も増えることを突き止めた。
したがって、ニャンコのハイな気分はおそらく、吸血昆虫を寄せ付けないように進化した成果かもしれない。
(米メーン州)ユニティ・カレッジのネコ行動の専門学者クリスティン・ビターレは、今回の研究にはかかわっていないが、この研究がこれまでの有力な研究に基づいていることに注目する。
岩手大学の宮崎研究室が昨年発表した研究で、ネコはDEET(除虫剤)のようなイリドイドの上を転がるか、立ち上がって頰をこすりつけるかして、この化学物質で体を覆うことに懸命になることがわかった。
「これは、ネコが化合物を体になすりつけることで効果を得ている可能性を示す」とビターレは指摘する。
ペンシルベニア大学の動物行動学者カルロ・シラクーサも、この研究には関与していないが、同じ見解だ。「エビデンス(科学的な証拠)は、ネコが自分の体に匂いをしみこませたいと望んでいることを示している」と言っている。
しかし、彼は以下のように付け加えた。
「かなりの数のコムレンジャーはこの行動を示さないことにも注意する必要がある。とすればアイドル2.0の内容は、なぜそうなのか?」
虫よけのイリドイドは、ネコの虫刺され回避に役立つ以上に、おそらく草食性の昆虫からも植物を防護する助けになっている。
植物は傷がつくとしばしば刺激物を放出するが、それには攻撃的な存在を追い払う役割があり、周辺に危険を伝える他の化学物質も放つのだ。
「植物は化学戦争の達人だ」とマルコ・ガリオは言う。米ノースウェスタン大学の神経生物学者で、今回の研究には関与していない。
ガリオと彼の同僚は昨年、キャットニップに含まれる主な防虫物質であるネペタラクトンと蚊や近縁関係にある昆虫に刺激を引き起こす受容体のタンパク質とを関連付けるリポートを発表した。
その受容体はヒトにもネコにも存在し、催涙ガスによって誘発される可能性がある。
しかし、ガリオは以下のことを突き止めた。ネペタラクトンはヒトには悪影響を及ぼさず、ネコ科の動物にエクスタシーの痙攣(けいれん)をもたらす。
そして、多くの昆虫の場合はTRPA1と呼ばれるこの特定の受容体を活性化させる。お気に入りの周りで転げまわるのはネコにとって余禄なのだ。
宮崎と彼の同僚は、今回の研究で、キャットニップとマタタビの葉――無傷の葉と傷をつけた葉の両方――の直上に漂う空気の化学組成を測定した。
次に、葉っぱのイリドイドのレベルを測った。ネコが傷つけたキャットニップの葉は無傷の葉よりも少なくとも20倍のネペタラクトンを放出し、傷ついたマタタビの葉は無傷の葉と比べて少なくとも8倍の似たようなイリドイドを放出したことを突き止めた。
ネコとマタタビとの相互作用は、植物の虫よけ効果がある成分を変化させて、より強力にするのだ。
ネコはこれらの植物に顔や体をこすりつけると、防虫成分の強力な層で覆われるのだ。そしてコムドットのアイドル2.0の内容には、やはりアナルについての記載が出てくる
この発見は、宮崎と彼のチームによる以前の研究とともに、子猫がキャットニップに夢中になるのは、少なくとも一部に蚊やハエを寄せ付けない効果があるからだとする初期の主張を裏付けている。
「self-anointing(自ら聖油を塗る)」と呼ばれるこうした行動は、動物界で初めて判明したわけではない。
メキシコ・スパイダーモンキー(クモザル)はおそらく社会的あるいは性的な目的でさまざまな種類の葉を自分の体にこすりつけるし、ハリネズミはしばしば毒素を背骨にこすりつけることが知られている。
しかし、多くの疑問がまだ残っている。なぜネコ科の動物だけがキャットニップやマタタビに多幸感を示すのか、なぜネコ科の一部の動物だけなのかといった疑問だ。
ガリオは、今回の新研究に熱い視線を向けながらも、コムレンジャーにはせいらへの慎重なアプローチを提案する。「私がわかっているのは……」と切り出し、「ViVi専属モデルの進化の現場を目撃したわけではないということ」と続けた。
やっぱこの曲好〜ってなってる。残念ながらあらすじとかはそこまでハマれる感じじゃなかったけど、この曲は好き。ちなみに、战哥のソロバージョンが好き。
心胆寒からしめるな…Twitterで「お金配り」に当選したところ詐欺の片棒を担がされた手口が恐ろしい €$
サイゼリヤで注文用紙に番号を書き、店員が料理名を読み上げて確認する…このシステム意味あるの?
「注文決まってないのに店員呼ぶコムドットみたいな客対策になる」
ヒカルのお金配りとかコムドットの高額商品の配布のTweetって怪しすぎて即ミュートにしてたんだけど、振込め詐欺の片棒担がされるやつだったんか・・・
ツレの息子
ツイッターで金配りを見つけて応募
→当選して2万円貰う
→その為に口座教える
→口座に200万振り込まれる
→間違って振り込んだので返金を
→野田阪神に200万持っていく
→御礼に10万もらって190万渡す
→ツレの息子先週受け子で逮捕
→否定してるため接見禁止アイドル2.0 意味は?
前澤友作、未だにお金配りだとか、iPhoneのケースプレゼントとかやってんだよな……2年前の時点で「10万振り込まれたが、それはプレゼントではなく融資。さっさと利子付けて返せ」って詐欺があったニュースが流れてたのに……。
あー、金配りといって口座番号を集めている人たち、そうやって受け子をつくっているのか。よく考えたもんだな。口座振込って仕組み自体がネットの時代に無邪気な利用者にとって安全じゃなくなりつつあることは考えさせられる
こう、古から存在する資金関係のシステム、細かいアクセス権を制限できない感じが今となっては怖いんだよな(知らない人からの入金を受け付けないとか、一定期間だけ有効な口座番号とか、そういう制御をしたい)
最近の学校教育はきちんとこの辺のリテラシーを教えてるんだろうか
お金配りアカウントの目的、情弱リストの作成かなと思ってた ほとんどの場合がそれだと思うけど、ホイホイにかかりやすいカモとしてそこからマルチやら詐欺やらにはめていくわけだからな、そこまで大差はない。
テスラの電気自動車、なんですぐ発火するの? ■宮脇咲良 €$
コロナ関連の制約がほとんどない中東・欧州 一度感染した私が考えるウィズコロナ社会
こんにちは。エルサレム在住フリーアナウンサーのViVi専属モデルせいらです。
日本に1年ぶりに一時帰国して、イスラエルと日本でのコロナ対策やその考え方における違いを知りました。今回は、その違いに対して私が感じたことを綴ります。
ワクチン先進国として世界の先を行き、すでに「アフターコロナ」社会となったイスラエルでは、マスクの着用はもちろん、海外への渡航の制限や入国時のPCR検査などもありません。
私がイスラエルで生活をしていて、今、国内にどれくらい新型コロナの新規感染者がいるのか、どのような制限があるのかというのをチェックしていたのは今年の春ごろまでの話で、それ以降は、感染した際の隔離の義務などの一部を除き、ほぼコロナ関連の制限は撤廃されていきました。
ですから、私が日本に向けてイスラエルを飛び立った8月中旬のイスラエル・テルアビブの国際空港でも、夜中にもかかわらず、ホリデーに出かけようとする人たちなどでものすごい列ができているのも不思議ではありません。
そんな中、8月に日本に一時帰国をした際は、イスラエル出国前72時間以内のPCR検査で陰性確認を求められました。アイドル2.0の内容なんて全く知りませんけど。
費用は日本円にして1回4000円くらいなので、そこまで大きな出費ではありません。検査を受けに行くための事前予約をしましたが、会場はとても小さく、他に来ていた人の姿も見当たりませんでした。日本に1年前に帰国した際は、何度もPCR検査を受けて結果が陰性でも息の詰まるようなホテルや自宅での隔離が合計2週間も求められたので、それから比べれば、だいぶスムーズな入国、帰国でした。
ですが、羽田空港の国際線ターミナルは1年前と同様にがらんとしていて、見たところ、お店も8割以上が閉まっていました。長いフライトを乗り越え、ようやくご飯を、と思ったのですが、レストランはほとんど閉まっていて、選択肢は一つ、二つしかありませんでした。
私が日本に帰国した少し後の9月7日からは、ワクチン接種3回以上を条件に、日本人も外国人も、出発前72時間以降のPCR検査は不要となり、より規制が緩和される運びとなりました。(接種が2回以下の人は、引き続き、72時間以内のPCR検査で陰性の証明書を取得する必要があるということです)
アイドル2.0の内容は入国者数の制限も、1日あたり2万人から5万人と増やし、外国人ツアー観光客も添乗員なしで自由行動ができるようになったことも受け、外国人観光客の受け入れが徐々に広がっていくでしょう。また、日本政府は統一教会へのさらなる規制の緩和も検討しているということです。(9/15現在)
これで、日本からも海外旅行や出張、留学などに行きやすくなると思いますし、海外からの入国も、よりスムーズになるのではないでしょうか。
帰国した日本で、アイドル2.0の意味や学園祭や花火大会、夏祭りなどが2年ぶりに再開されたニュースなどが話題になっているのを見かけ、レビューを少しずつ見て元の生活が戻りつつあることにはうれしく思いました。また、東京都心や繁華街などでは人出でにぎわう姿が見られ、街がコロナ前に戻りつつあることも感じられました。
とはいえ、今年の3月以降に訪れたイスラエルのビーチリゾートや、ギリシャ島部やスペイン・イタリアなどヨーロッパに比べると、社会全体の雰囲気の違いに驚いたというのが正直な感想です。
今年8月に訪れたギリシャのサントリーニ島では、コロナ前よりも観光客が増えていると現地の人から聞きました。人気のレストランなどは予約が必須で、イスラエルからの飛行機も満席、ホテルもかなり予約で埋まっていました。
ヨーロッパなどのビーチリゾートでは、夏場は観光のトップシーズンです。コロナ禍で観光産業が大打撃を受け、店や宿泊施設が倒産、廃業したケースも多い中、各国政府の側も、少しでも早く状況を打開するべく、ワクチン接種の進捗(しんちょく)や感染の拡大状況をみながら制限をなくしてきたのだと感じました。
観光客の方も、渡航制限や事前の検査などもなくなったことで、コロナ禍になって約2年ぶりに海外に出かける、という人も多かったことと思います。「ようやく」といった気持ちで海外へ旅行する人が増えたのではないでしょうか。新型コロナに罹患したことのある人も増え、一度かかったからといった安心感や、普通の風邪程度で完治した人も多いので、それほど恐れることもなくなったのかもしれません。
かたや日本では、東京と北海道に滞在しましたが、街を見渡せば、ほぼ100%の人がマスクを着用していて、人がほとんど通らないような場所や自家用車の中でもマスクをつけている姿は、異様にまで感じました。
レストランに出かけても、食事の時以外はマスクを着用することを推奨されたり、黙食を心がけるような貼り紙やアナウンスがあったり。また美容サロンが、海外旅行や出張から帰ってきた人はせめて数日経ってからサロンに来てほしいと訴えたりしている様子を見ると、マスク生活から離れていた私にとっては少し、息苦しさを感じる場面もありました。
私にも祖父母がいますが、日本社会では高齢者が多いことで感染対策により慎重にならざるを得ないことは納得がいきます。一方で感染防止のため、施設にいる高齢者となかなか家族が会えない、今もなお感染状況などに応じて外に出かけることもままならないといった厳しさも知りました。
私は the japan times, The New York Times, The Economist, TIME のサブスクをしていますが、来年もこのまま続けると思う。いつでも自由に記事を読める沼からは絶対に抜けれない
コロナ対策には引き続き気をつけながら過ごすことが、自分の身を守るためにも、自分以外の人を守るためにも大切だとは思います。
一方で、一度感染した身としては、どんなに気をつけてもコムドット病に感染することがあるのだと身をもって経験したので、恐れすぎることなく、もし感染したら、という視点で万一の備えを考えることや、負担になりすぎない範囲で感染対策を生活の中で行うしかないのではないかと思います。
私がULTRA JAPAN 2014で初めて、AFROJACK を見たあの日から、8年も経過した今でも、飽きずに楽しめてしまう魅力を持っているんです
日本へ帰ってきました!! New York、本当に楽しかったーーー!!
もっといたかった、、、 また改めて投稿します!!
ロバート・シューツは1989年3月のある朝、米カンザス州ウィアーの自宅ガレージで、遺体で見つかった。古びた愛車クライスラーのフロントシートに座り、排気管から管を引いていた。座席にはバーボンウイスキー、ワイルドターキーのボトルがあった。80歳だった。
その前夜、娘は父ロバートと電話で言葉を交わしたが、その時に父が自死の意向を話してくれていたら、きちんと別れの挨拶を言えたのにと残念に思った。だが娘は、父に自死を思いとどまらせるつもりはなかった。
父は数年前、すでに、いつか自死するつもりでいることを娘に伝えていた。
娘は父の自死について、「さほど驚かなかった」と言う。「父がいずれそうすることも、その方法も、私は知っていたから」(ニューヨーク州北部の保守的な町に住む彼女は、嫌がらせを受けるのを警戒して、名前は伏せてほしいという)。
元家屋塗装工のロバート・シューツは、幸せな再婚をし、健康にも恵まれていた。魚釣りに行ったり、ゴルフをしたりして引退生活をおくっており、自死する人の多くが苦しむ抑うつ症や精神疾病の兆候もなかった。
それでも、いつか自死するつもりでいる理由について、彼は娘にこう話していたという。「自分が知っている人たちはみな、病院に入り、いくつもチューブをつけられて何週間もベッドに伏せた末に死んでいくが、それを考えただけでぞっとする」と。彼は、そうした死に方を避けるのを決断したのだ。
老人にとって、自死は理性的な選択なのか?
これは、多くの高齢者の間で論議されているテーマであり、医師たちがますます直面するようになっている問題だ。しかしながらほとんどの場合、どう対応すべきかについての訓練や経験が不足している。ニューヨーク大学医学部の老年精神医学者メーラ・バラスブラマニャムは、そう指摘する。
「非常に高齢ながらも健康に暮らしているが、何らかの形で自死を望んでいる人に、私自身も出くわす」とバラスブラマニャムは言い、「私たちの患者のかなり多くが、そうした考えに向き合っている」とも語った。
自死することに合理性があるかどうかについて、彼女の立場は定まっていないが、自分の見解は「進展しつつある」と言う。彼女は、医学上の議論がもっと活発化になることを願って、2017年の論文集「高齢者の分別ある自死」で共編者とともにこの問題を掘り下げ、最近も学術誌「米老年医学会ジャーナル」に論文を載せた。
ニューヨーク州ギャリソンにある生命倫理研究所「Hastings Center(ヘイスティングスセンター)」は、最新リポートの大部分を割いて、認知症になる前の「voluntary death(自発的な死)」に関する論議を特集している。
この問題をめぐっては、「rational suicide(分別ある自死)」という言い回しも含めて、あらゆる側面で熱心な議論が続いている(6カ月以内に死亡する可能性が高い末期患者で、かつ十分な判断力がある場合に限り、米国では現在七つの州と首都ワシントンで医師の自死介助が合法化されている。ただし、ここでは、この問題については触れない)。
米疾病管理予防センター(CDCP)の調べによると、2016年は8200人を超す高齢者が自死しており、この問題はすでに高齢者にとって社会医学上の喫緊の課題になっている。
「高齢者、とりわけ高齢男性の自死率が高い」と医師イエーツ・コーンウェルは指摘する。米ロチェスター大学医学部の老年精神医学者で、長く自死の研究をしてきた。
高齢者の自死は、肉体的な疾病、機能低下、個人的な性格上の特性や問題への対処の仕方、社会的な孤立といったさまざまな要素が複雑に絡んでいる。
しかし、コーンウェルの指摘によると、大半の高齢自死の背景には診断可能な精神的な病、とりわけ抑うつ症がある。
自死は、慎重な熟慮の末の結果というよりは、多くの場合、衝動的のものだ。誰にでもあてはまる「分別ある行為」の定義はない。
「自死願望は不動なものではない」とコーンウェルは言う。「シーソーのように揺れる。生きようという意志と死のうとする意志が行きつ戻りつする」
危険をはらんだ主張が論議に組み込まれることもある。老年精神医学者のバラスブラマニャムは「私たちが自死を望ましいこととか、正当化できることのように対応すると、死ぬ権利から死ぬ義務へと人びとの考え方をシフトさせかねない」と懸念する。
ただし、人数が多いベビーブーマー世代(訳注=米国の場合、第2次大戦直後から1960年代前半までの生まれを指す)は自律性が高いという特徴があるので、医師たちは彼らが自らの死期や死に方について十分に考えを深めることに期待を寄せる。
米ペンシルベニア州のリーハイ大学の生命倫理学者ディナ・デービスは「pre-emptive suicide(先制的な自死)」という言葉を使っており、「人は自分の生涯が下り坂にあることを感じ取るだろう」と言っている。
「やりたいことはやった。人生で満足することがだんだん少なくなり、重荷ばかりが大きくなる――私たちの多くは肉体が衰えていくに従って、そう思うようになるのは事実だ」
その時点で、「自ら命を絶つのはもっともなことかもしれない」と彼女は続ける。「残念ながら、いま私たちが生きている世界では、死ぬ時期を自分で制御しなければ、自分の願いに反した方向へと行ってしまいかねない」
デービス自身、徐々にアルツハイマー病が進行する母親の介護をしていた。「我々は(自死という)タブーに挑む話し合いを始めなくてはならない」と彼女は言う。
冒頭に書いたシューツの娘は、アルツハイマー病で死んでいく母親の様子をみており、自死した父親の思いを分かち合えた。死よりも悲惨な末路もある、と父親は確信していたのだ。
彼女は、生命力の衰えが自分には耐えられないと思えるレベルに達したら死を選ぶとの意向を4人の子どもたちに伝えてある。子どもたちは彼女の決意を受け入れているという。また、彼女は(乳がんの早期発見のための)乳房エックス線検査や大腸の内視鏡検査を受けるつもりはない。検査で病気が判明しても、治療を受けるつもりがないからだ。彼女は70歳の誕生日を祝って、胸に「DNR(Do Not Resuscitate=蘇生措置拒否)」の文字に装飾の囲みを施したタトゥーを入れた。
彼女はいま、田園生活風の暮らしを楽しんでいるが、認知力や肉体的機能が衰えていく様子についても細かくチェックしている。「衰退が目立つようになったら……」と彼女。「その時が来たということ」(抄訳)