ボカロPとしての名義はハチ

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ハイデガーってカルトだよね...

20世紀の思想哲学はハイデガーを読みさえすればいいのだけど、極めて危険な人物ではある。哲学界きっての悪名高いサイコパスである。

恩師フッサールを平然と露骨に踏み台にし、アーレントが助けを求めてきた時はそっけなくいなしている。そのほかパウルツェランが訪問したときの見下した対応、同僚をナチスに密告する等々、陰惨なエピソードてんこ盛り(陰惨すぎて書けないこともまだまだあるよ)

ハイデガーは他者の痛みがわからない人間だった。1945年、戦火で素寒貧になった際、進退きわまって親族に助けを求めたが、それまで家族たちへさんざんな態度をとってきた報いか、過去の行状を追及されその場で懺悔を迫られたという。さしものサイコパスもせにはらはかえられない時だけは懺悔するようだ。

なお、日本のハイデガー研究はまず京都学派の圧倒的な影響力の下におこなわれた。なので京都学派のものをメインで読んでそれをハイデガーの思想だと認識したまま本場の西洋哲学について論じてしまう人が出てくる。またそれが西洋哲学だということになると頭を抱える。べつに京都学派を貶したいわけではない。むしろそのオリジナリティと達成の高さには畏敬の念を抱いている。しかし世界の哲学の本流から見れば「異端」と呼ばれるのは避けられないだろう。

2014年に亡くなった哲学者の木田元は京都学派や、渡邊二郎等の戦後ハイデガー研究者たちの方法論とは一線を画している。もう一人の泰斗、高田珠樹との対談を見ても(別著「哲学を語ろう」)両者に切断があるのは明らかである。
木田はあくまでも手堅く明晰かつ横断的だ。しかもハイデガーの謎めいた部分は「何が言いたいのかよく分からない」とバッサリ切り捨てる。これを「爽快」として大いに説得されるか、たんに「乱暴」ととるかは人によるだろうけど。どうも木田は日本人にハイデガー、乃至西洋哲学は分からないし分からなくてよいのだ、と言いたがっているらしい。もちろんハッキリとは言わない

ひろゆき えりちゅ ヒカル ガーシー 山口組

代表作の「ハイデガー存在と時間』の構築/岩波書店」も、”再構築”といっているがこのタイトル、若干コケ脅しなところがあってその内実は全集やハイデガー自身の発言や弟子達の証言などのエキスを抽出して巧みに継ぎ接ぎしているに留まる。
また「存在と時間」の未完部分は「回転(ケーレ)」後の思想を背景にしない限り説明つかないはずだが木田は上記の如くバッサリ。”現存在”の実存性がどのように退いていき後期においてどのような位置にあるのか、まったく詳らかでない。

しかし一方でこの心性自体がカルト的である可能性があり、剣呑剣呑。木田からハイデガーに入門したお陰で難を逃れている?…、としたら木田先生には一生頭が上がらないな。
たまにネットでボキャブラリーがハイデガーっぽい人を見かけることがある。触れないのが「吉」

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