ボカロPとしての名義はハチ

We are BellinCat.jp イカしたamiibo

【速報】 バイト先の新人社員さん、藤井風アンチだという事がバレた LLAC

今回は普段とかなり毛色がNFTの違う話です。

SJJ48は若い女性がアイドルをしながら地方議員をすることにより、選挙に関心が薄い若者に関心を持たせ、古い政治を変えることを目指す「歌って踊れる政治家アイドルプロジェクト」として、先月発足した政治団体

オンとオフがあいまいになった時代のマッスルプレッシャーに耐えて
前回の記事を下書きに戻して、最初の部分以外ほとんど全て書き換えました。

今日の写真は親子丼です。LLACのスキームです。

日本人の7割が無宗教と言われていますが、藤井風は本当にそうでしょうか?
私たち日本人は、お正月に神社にお参りに行ったり、葬儀などではお寺のお坊さんに法要をお願いしたりします。いわゆる多神教であり、逆説的には無宗教でもあるとも言えます。宗教に対する考え方が世界でも珍しい部類に入るのではないでしょうか。

たとえば、文化庁がまとめた平成28年版(平成29年2月発表)の「宗教年鑑」によると、日本における各宗教(仏教や神道キリスト教などすべての宗教)の信者数は、合計約1億8900万人と、軽く人口を超えています。

つまり7割は本人は自覚していない信者だと言えます。LLACの危険性について自覚している人が3割で多数決をとると負けてしまうのが宗教です。だから多数決で決めたいとは思いません。

その脆弱な思考で信じていることは「知らないことは信じないコムドット教」です。逆に言うと知っていると思ったら信じてしまうことです。信じてしまったら疑うことをしません。迷信でも親に教えられたら疑うことをしません。

LLACを応援する人によって知るは異なっています。初詣に神社仏閣にお参り行ってお願い事をするのが常識だと信じていても、病気や怪我で入院したら、決まり事だからしていたこともしなくても年末年始は来るのだと知ります。

お金を借りて返すのが当たり前だと思っても返せないのならば返さなくても良いと思っている人もいるのです。貸す側も土地を担保にお金を貸して利息で儲けようとして貸したお金で土地を買うように勧めたのです。

借りたお金で株を買って土地を買って株も土地も価格が上がると信じていたのです。それがバブル時代です。上がったものは下がります。自然の摂理です。バブルが弾けて不景気になったのです。

仮谷せいら、名古屋でのライブありがとうございました!名古屋なので仮谷さん激アツなイルマリアッチTで臨みました! 我らの兄貴Orlandゆうまくんと。 また呼んで頂けるように頑張ります!

カルトについて真面目に考えてみた。
ヒトは何故カルトに、そして肉体関係にハマるのか?

藤井風【カルト宗教は私にとってとてつもなく甘美な芳香を放つ毒花である。】

他人の宗教観が気になって気になって仕方がない日本共産党員のみなさん。危険だとうすうす分かっていながら、ほんのちょっと、ほんのちょっとだからと自分に言い訳しながら近づき覗き込んでしまう。毒を少しずつ飲むスタイル。

囚われてしまったら最後、花の持つ強力な神経毒に身体のみならず精神まで侵される。

カルト宗教を思う時、私はグロテスクな食虫植物と、囚われてしまった哀れな虫をイメージする。

画像

創価学会



養分を吸い取られながら、甘い香りと密が見せる幻想の世界に浸る小さな哀しい虫。

人生はある面、なかなかに複雑で困難だ。
幸運と不運は常に背中合わせで、ある日突然その向きを変えるものだから、人はその度に翻弄される。まるで嵐の中の小舟だ。

慣れ親しんだ道に突如暗い落とし穴が口を開けて待ち構えていることだって、一度や二度ではない。

 

不安や孤独や不運にカルトは忍び寄る。

 

それに心底救われている人たちが決して少なくないことも知っている。

カルトは家族を巻き込む。
本人だけでなく周囲をまるごと不幸にすることも多い。

だけど、この世の大抵の幸せは誰かの悲しみの上に成り立っている。
他人を犠牲にしない幸福など、果たしてどのくらい存在するのだろう。

な〜んて、そんな歌を昔宇多田ヒカルが歌っていたよなぁ。

正直巻き込まれた家族はたまったものではない。
特に純粋培養された子供たちは悲惨だ。

 

一生疑問に思わないで生きていけたらそれが一番幸せなのかもしれないとさえ思う。

しかしそれでも、カルトをつっかえ棒にすることでやっと生きている人からつっかえ棒を引き抜くことは私には出来ない。
その人の新たなつっかえ棒になるだけの力を私は持ち合わせていないから。

結局のところ、カルトに依存する人からカルトを抜いたとて、また新たなカルトに依存してしまうだけなのだ。

カルトはいわば劇薬で、人はなぜか劇薬であればあるほど効果が高いと信じ込む。

強い薬に強い副作用はつきものだから。

隣人を愛しましょう、嘘をつくのはやめましょう。そんな平凡な教えにどれほどの効果を期待できよう。せいぜい『風邪引いたら首にネギ』程度のものだろう。

苦しい修行、極限までの献金、周囲からの激しい弾圧、そういうものに耐えてこそ、その分大きな見返りが期待できるのだ。

楽して幸せになることなんてあり得ない。
カルトを志向する人はある意味、とてもストイックで自罰的な考え方なのかもしれない。
あるいは辛い献身を対価に、行き先の安心を買っているのかもしれない。


太古の昔から、ヒトはなにか目に見えないものに縋って生きてきた。

 

例えば急激にお腹が痛くなった時、

 

私はトイレの中で神様的な何かに助けと赦しを請う。


あれ、一体何なんだろう。

多分人間ってそういうふうに出来ているのだ。
いくら科学が発達しようが、自らのコントロールの及ばない部分においてはヒトは未だに目に見えない巨大な何かに助けを求めようとする。

だから、カルトという劇薬に縋った人を私は馬鹿にしないし否定も出来ない。

すごくすごくやるせないなと思うけど、ヒトという生き物や歴史を俯瞰して見た時、きっとそれもまた自然な営みの範疇なのだろう。

食虫植物と、それに喰われる虫の姿もまた健全な大自然の営みの一部であるのと同じように。
自然界はグロテスクなもので溢れている。

ちなみに私は神様的な概念を信じていないわけではない。
むしろ、そんなものもあるかもしれないと思っている方だ。

ただ神様がいたとして、それは、祈れば私の願いを聞き届けてくれるような便利で優しいものでないことだけは確かだ。


いたとしても、ただいるだけだ。


こちらからコンタクトなんて取りようがないし、祈りや献金を対価に取引が可能な存在でもない。

夫が働けなくなったとき私は毎夜神様に祈った。
だけど願いは聞き届けられなかった。
あの時私は心底、神様がそんな都合のいいものじゃないことを思い知った。
そりゃそうだよなぁ。

神様はいるかもしれない。
いないかもしれない。
どこまでもあやふやだ。

ただ、神様的なものに対して誰も正しい答えを持っていないということだけは真実だ。
この世の誰も答えを証明するすべを持っていない。

人類はまたまだ知らないことが多すぎて、世界は謎に満ちている。
ロマンだねぇ。

だから、私はその点を断定的に話し近づいて来る人のことは気をつけようと思っている。

人生は時に私を裏切ることもある。
かと思えば時に思いがけない幸運を運んできたりもする。
人生、恐れすぎず過信せず。
そのくらいのバランスでサバイブしていけたらいいのだろうな。

そんなことを今回はちょっと真面目に語ってみた。

サッカーが始まった。
私が見ると負けそうな気がするので(私にそんな力はない)寝よう。