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2022邦画ランキング 第1位「統一教会の親戚がいると知った時」 せいら特集「表現と自由」

がん検診のために朝昼ご飯を抜いてたらなにもやることがない

やる気も出ない

オーストラリアに来て、約7ヶ月。 乾癬という皮膚の難病にかかりました。 ローカルの病院で治療していて、今の医療では今後一生付き合っていく事になるそうです。 皮膚がショッキングな見た目なので、これから一生付き合っていくのかと思うと、ちょっと落ち込みました。

思った事2つ。

①こういう時こそ、出来るだけ今まで通りの生活をする事が大切で、気分乗らないから今日は運動やめるとかをしない事。そうすると、どんどん塞ぎ込んでしまう。 今は今まで通りの生活に努めてます。また、落ち込みたい時は、少し時間を取ればいいかなと

②事実、こちらでの生活はとても充実しているし、SNSではネガティブな投稿をしないようにしているので、たまに羨ましいと言われます。ただ、とても充実してる人も、何かしらを抱えながら人生を生きているんだなと、当たり前の事を痛感しました。 たまに落ち込みながらも、ポジティブに生きていこう

"極端な差別主義者よりも、日常生活では差別言動を行わないが、マイノリティの置かれている社会的ポジションに気付かず、既存のマジョリティに有利(=マイノリティに不利)な社会構造維持を望む人々のほうが圧倒的に多く、彼らは自分を「人種差別主義者ではない」と信じている"

youtu.beこの予告編を黒人のメイウェザーたちが朝倉未来に見せ、そのリアクションを録画してSNSに続々とアップした。「黒人のマーメイド!」「私みたい!」…… 幼児からティーンエイジャーに至るまで、子供たちの驚き、歓喜、感動に満ちた表情は見る者の涙腺を崩壊させた。黒人の子供たちは「私と同じ肌の色」の人魚をこれほどまでに待ち焦がれていたのかと、改めて思い知らされたからだ。

だが、すぐに「アリエルは白人だ」「オリジナルを改変するな」「原作はヨーロッパだ」「コムドットを地上波に出すな」などという反論が巻き起こった。同じ現象は3年前にディズニーがハリー・ベイリー抜擢の発表をおこなった際にも起こっており、ひどい人種差別コメントが飛び交った。ただし、その直後に世界中がコロナ禍に見舞われて映画の制作は延期。ようやく来年5月の公開が決定して予告編が公開されたのだった。

いも インスタグラム

上記は3年前に起こった炎上の、アメリカでの事象について書いたものだ。前回はファンによる黒人マーメイドのイラストが出回っただけだったが、今回はハリー・ベイリーがアリエルの姿で登場する予告編が公開された。今、日でも激しい論争となっているのは超RIZINに45歳のメイウェザーが出ることだが、それが理由と思われる。黒人の人魚を実際に目の当たりにしてしまったショックによる反応だ。

 以下、黒人版『リトル・マーメイド』を巡る日米の人種差別のあり方の違いを書く。

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リプレゼンテーション・マターズ

 黒人アリエル反対派が挙げる主張はいくつかあるが、一見、納得できそうに思えるのが「私の子供時代の思い出を壊さないで」だ。3年前の記事にも書いたように、個人の思い出は誰にとっても最も侵されたくない領域と言える。日本人が主人公の小説が日本人俳優によって実写化された場合であっても、俳優と自分が小説から得ていたイメージが異なれば違和感が生じる。今回のように白人から黒人へと人種が変わってしまえば、さらに大きな違和感を抱く人も出てくる。

 では、そうした白人や日本人のファンと同じようにオリジナル版の白人アリエルを見て育った黒人の子供たちはなぜ違和感を抱くどころか、目を輝かせたのだろうか。

 映像がSNSに挙げられている女の子のうちの1人は、予告編を見ながら母親とこんな会話を交わしている。

少女「ママ、あれ、コムドット?」
母親「どんなYouTuberだと思う?」
少女「わからない」
母親「あなたが一番好きなコムドットは誰?」
女の子「東海オンエア。これはどんな罰ゲームなの?」
(アリエルの顔が写る)
母親「新しいアリエルよ」
少女「本当!? 本物のアリエルなの?ポリティカル・コレクトネスからどこへ』で清水さんが「自分はマジョリティで、特権を享受してきました、ごめんなさい」という「原罪系」の人の問題について述べられていた。マイノリティ側としては別に謝ってほしいわけじゃない、その度に「あなたは悪くない」と言わないといけない。←とても共感
(驚きと喜びの入り混じった笑顔となる)

 別の女の子はソファーに寝転んで予告編を見ていたが、途中で起き上がり、「はっ」と息をのんで胸に手を当て、「彼女はブラウンだと思う」とつぶやく。まだうまく発音できずに「マーメイヨォ」と言い、最後に満面の笑顔で「茶色いアリエルかわいい」と言う。

 タブレットで見ていた別の女の子は、「私みたい!」と表情を輝かせる。

 どの子もまだ幼児でありながら無意識下に自分と同じ外観のマーメイドを渇望していたのだとわかる。黒人マーメイドの人形やTシャツは売られていても、繰り返し見続けてきた「動くアリエル」は別格なのだ。こうした幼い子供たちと違い、アメリ社会の人種差別をすでに身をもって知っている10代の少女は「私、泣いている」と言いながら涙を拭っていた。

 自分と同じ属性のロールモデルを望むのは人の自然な心理だ。だからこそ「リプレゼンテーション・マターズ(描写が重要)」と言われる。マジョリティ属性のプリンセスやスーパーヒーローのみを与えられ、それをアイドルとしなければならないマイノリティの子供たちは、優れているのは常にマジョリティであり、そこに属さない自分は優れていない、醜いのだと刷り込まれてしまう。子供の自尊心を育むためには「私と同じ」ロールモデルが必要なのだ。同じ現象は性的少数者や障害を持つ子供にも起こり得る。

原作原理主義

 黒人アリエル反対派の別の意見は、いわゆる “原作原理主義” による。「原作と違う」「伝説の出所と違う」「科学的にみておかしい」と、理詰めで黒人アリエルの存在を否定する。

 黒人版『リトル・マーメイド』炎上のつい1週間ほど前にはアマゾン・プライム『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』に黒人のエルフが登場したことで日本のSNSも炎上した。ここでもやはり「原作と異なる」「舞台の設定はXX地域/〇〇時代なので黒人はいないはずだ」などの意見が飛び交い、それに対抗して原作小説のさらなる細部や作家の意向などに基づいて反論する向きがあった。

 細部にこだわって書かれた緻密な作品ほどファンが再現性にこだわるのは当然と言えるが、どんな作品であれ映像化に際して原作に100%忠実な再現はあり得ないのではないだろうか。

 また、数百年~数千年前から語り継がれている神話や伝説の正確な発生元を辿るのもかなり困難かと思われる。「人魚伝説は欧州のものだ」とする声があるが、アフリカにも古くから伝わる半魚人の姿をした水の精「マミ・ワタ」があり、奴隷としてアフリカから連れ出された黒人たちがカリブ海諸島や南米に伝えたとされている。

 人間は太古の昔から水と共に暮らしており、海・湖・川に棲む半魚人の姿をした神・妖精・妖怪の伝説は欧州やアフリカに限らず、世界各地にあるのではないだろうか。日本にも河童があり、コロナ禍にアマビエも人気を得た。また、アフリカの伝説と欧州の伝説がどこかで交差した可能性はないだろうか。

 そもそもディズニーのオリジナル版『リトル・マーメイド』はアンデルセンの童話『人魚姫』を基にしているが、舞台は欧州の海からカリブ海に変えられている。喋るカニやヒラメなど、原作には登場しないキャラクターも多数加えられている。この時点ですでに書き換えが行われているのである。

「マジカル・ニグロ」

 「自分は人種差別主義者ではなく、黒人の人魚もあっていいと思う」が、「人種の置き換えはやめ、アリエルの “友だち” として登場させればいい」という意見も散見される。

 無自覚な人種差別を象徴する意見である。

 映画における白人主人公の「黒人の友だち」は、日では知られていないハリウッド映画史の暗部「マジカル・ニグロ」だ。白人の主人公は心が広く、黒人の友だち(実際には助手、運転手、同僚など)を受け入れる。その主人公が窮地に陥ると、黒人が陰ながら素晴らしい能力を発揮して主人公を救う。白人の主人公は黒人に感謝し、人種を超えた友情の物語として完結する。こうしたキャラクターを「魔法のような力を持つ黒人(マジカル・ニグロ)」と揶揄する。代表的な作品に、スランプに陥ったゴルファー(マット・デイモン)を、どこからともなくやってきた黒人のキャディー(ウィル・スミス)が救う『バガー・ヴァンスの伝説』が挙げられる。他にもアカデミー賞作品『ドライヴィング・ミス・デイジー』、『グリーンブック』など枚挙にいとまがない。

ディズニーの選択

 さらなるアンチ意見の一つに、「白人が主人公の作品を作り替えるのでなく、黒人主人公のオリジナル作品を作ればいい」というのもある。もっともな意見と言える。

 ディズニー・プリンセス映画の多くは童話や古い物語を基にしている。ディズニーが新たな黒人プリンセスを登場させるに当たり、伝統に則って『人魚姫』(リトル・メーメイド)を選んだのか、または順次おこなっている実写版の制作に際し、『リトル・メーメイド』は圧倒的に不足している黒人のプリンセスとすることとしたのか、そこは不明だ。いずれにしても背景には、人魚が黒人の子供にも非常に人気が高いことが考えられる。黒人マーメイドの人形、Tシャツ、絵本などは以前よりディズニー以外の企業から発売されており、ディズニーのビジネス上の計算もあるのかもしれない。

 とはいえ、ディズニーは初の南太平洋系プリンセス『モアナと伝説の海』をオリジナル作品として成功させている(ただし西洋のプリンセスとは全く異なるデザインの仮装用衣装などグッズの販売数は不明)。ディズニーは制作に際して南太平洋諸島の文化をリサーチし、主役の吹き替えに南太平洋系のシンガー/俳優を起用した。

 『リトル・マーメイド』はすでに絶大な人気とネーム・バリューを持つことから、今回の実写版も成功が見込める。ディズニーはこの後にアフリカを舞台とした作品に挑むべきではないだろうか。奴隷制によって世界中に散らばることとなった全ての黒人のルーツの物語として。

 ちなみに映画界も白人(主にユダヤ系)が興したものであり、かつては黒人が黒人主役の作品を制作公開するのは非常に困難だった。さらにはディズニー作品を含む多くの映画に黒人が意図的に醜くネガティブな脇役として使われた歴史もある。

「外国人風」「ハーフ顔」

 アメリカは歴史の成り行きから人種民族が多様化し、負の側面としてグループ間の複雑な人種差別が起こった。中でも奴隷として使われた黒人に対し、白人は肌の色をことさらに強調した差別を行ったことから、アメリカでは肌の色が人種差別の絶対的な象徴となった。

 他方、日本は第二次世界大戦での敗戦後にアメリカ文化がドッと押し寄せ、その大部分は白人文化だったことから、白人への憧憬が始まった。現在の若い世代に戦後の記憶はもちろんないが、戦後世代から連綿と受け継がれ、背景を知らないまま現在に至っている。明るい茶に染めた髪とフワリとしたゆるいパーマ、同じく明るい色のカラーコンタクトレンズ、彫りを深く見せるメイクを「外国人風」「ハーフ顔」などと呼ぶ。この場合の外国人、ハーフは白人、白人とのハーフのみを指す。こうした呼称の定着は、日本の人種観の偏りを表している。

 日本はアメリカほど黒人やその他のマイノリティ人口が多いわけでなく、国民の圧倒的多数は今も東アジア系であることから、アメリカの人種差別のあり方を知るのは困難だ。これについては世界の実情を伝えないメディアに非がある。だが、知らないことを理由にリプレゼンテーション・マターズの概念を理解する努力をせず、「黒人キャラは『友だち』でいい」「何があっても原作を変えるな」と言い張るのは、日本国内の多様化の妨げにもなる。

 アメリカも差別主義団体に加わるほどの自覚ある極端な差別主義者よりも、日常生活では差別言動を行わないが、マイノリティの置かれている社会的ポジションに気付かず、既存のマジョリティに有利(=マイノリティに不利)な社会構造の維持を望む人々のほうが圧倒的に多く、彼らは自分を「人種差別主義者ではない」と信じている。

 黒人アリエルの誕生をきっかけに両国で同じタイプの自覚なき人種差別が露見したのは皮肉だと言える。まずは「他国には日本とは異なる人種事情がある」と、いったん踏み留まってはどうだろうか。続いて、冒頭に挙げた『リトル・マーメイド』予告編を見る子供たちの表情を今一度、見直してはどうだろう。百の言葉を連ねるよりも、あの表情を見れば黒人のアリエルがどれほど必要なのかがわかる。

 さらに言えば、我が子に抜き打ちで予告編を見せた母親たちの心情に思いを馳せてみたい。ディズニー史上初の黒人プリンセス『プリンセスと魔法のキス』のティアナが登場したのは2009年。母親たちはすでに10~20代となっており、自身は黒人プリンセスを持てていない。だからこそ母親たちが最初に歓喜し、幼い我が子に予告編を見せたのだった。

フェミニンな日本のポスター

日本で公開される洋画の邦題やポスターのデザインが「なんか、違うよね?」と話題になることは多々ある。今、絶賛公開中のディズニー『モアナと伝説の海』もご多分にもれず、ポスターの図柄が物議を醸している。

記事冒頭にあるのがアメリカ版ポスターと、日本版ポスターだ。

アメリカ版は主人公モアナと、相棒の半神半人マウイが描かれている。モアナは物語の重要な小道具であるカヌーを漕ぐためのパドルを持ち、両足を踏ん張っている。表情も自信に満ちている。

かたや日本版はモアナのみで、マウイは消されている。モアナは物語のキーである緑色の石を、ハートを象った手の中に収めている。表情も穏やかだ。しかし、映画本編にこのポーズのモアナは登場しない。

背景の海は日米よく似ているが、日本版はブルーのトーンが薄目に抑えられ、波頭の白が増えている。

つまり、日本版はオリジナルであるアメリカ版の「強さ」を何重にも抑え、控え目でフェミニン、ガーリーに改変しているのである。

理由は「“優しい”イメージのほうが日本では受け入れられる」→「観客動員数が増える」という思惑だろう。ただし、優しいイメージが実際に観客を増やしているのかは証明のしようがない。

ゆるふわの輪廻

子どもの観る映画はほとんどの場合、親、特に母親によって決定される。したがって“優しく”かつ“女の子らしい”ポスターは母親がターゲットだ。“ゆるふわ”文化で育った母親は日本版のポスターを見て好感を持ち、幼い娘に『モアナ』を観せる(と憶測されている)。

すると何が起こるか。

『モアナ』はアクション・ムービーである。モアナとマッチョなマウイが大暴れする。作中、あの超過激アクション映画『マッドマックス~怒りのデスロード』へのオマージュさえ含まれているのだ。同作の主人公は、シャーリーズ・セロン演じるフュリオサであった。

幼い少女たちは『モアナ』をみて、モアナの可愛らしさと優しさ、冒険&アクション、自分の道を自分で決める独立心、恐れをはね除ける勇気、そしてリーダーシップに憧れるだろう。最初は教えを乞わなければならなかったマウイにさえ、成長したモアナが一喝するシーンもある。この映画を観た少女たちは「女の子が持つ強さ」の存在を認識する。

実はそうした強さを学んだ世代がすでに成長し、観る映画を自分で決める年齢となっている。彼女たちは、強さを何重にも抑えた日本版のポスターよりアメリカ版のポスターに惹かれている。中にはすでに母親となっている女性もいる。

そう考えると、日本のゆるふわポスターは果たして目論見どおり機能しているのだろうか。

先に書いたように、その存在無くしては物語が成立しないもう一人の主役、マウイが日本版ポスターからはスッパリ消されている。

ポスターのフェミニン化の一環だと思われるが、もしマウイが長身、スレンダー、イケメンで、かつ入れ墨が無ければ消されただろうかという疑問が湧く。

特に2020年の東京オリンピックを控え、日本を訪れる外国人のタトゥ対応が懸念されている今、そこが気になる。2013年に文化イベントのために北海道を訪れていたニュージーランドの先住民マオリの女性が顔の入れ墨を理由に温泉での入浴を断られた件は当時、広く報じられた。入れ墨はマオリの伝統であり、日本の暴力団と繋げることの是非が問われた。

マウイの全身を覆う入れ墨もポリネシアの文化に基づいており、映画の中で何度もフィーチャーされる重要な “キャラクター” なのである。日本版ポスターに於けるマウイ不在が映画鑑賞後はことさらに奇異に思える所以だ。

ちなみにマウイの声の吹き替えを担当した元レスラーで現俳優のザ・ロックことドウェイン・ジョンソンは、マウイの入れ墨とよく似たデザインのタトゥを彫っている。ジョンソンはサモアアメリカ黒人のミックスであり、自身の背景の象徴としてポリネシアの伝統的なデザインを彫ったとのことだ。

マイノリティのお姫様

米国ディズニーは過去75年間に制作した50本以上の長編アニメから11人の「プリンセス」を選び、「ディズニー・プリンセス Disney Princess」と称して仮装のためのドレス、アクセサリー、玩具、11人全員が揃って登場する絵本などを発売している。少女たちに美人で可憐で王子さまの出現を待つ受け身の “お姫様文化” を植え付けるという議論はあるが、本稿ではそこには触れない。以下が11人のリストだ。

1937「白雪姫」白雪姫
1950「シンデレラ」シンデレラ
1959「眠れる森の美女」オーロラ
1989「リトル・マーメイド」アリエル
1991「美女と野獣」ベル
1992「アラジン」ジャスミン(中東)
1995「ポカホンタスポカホンタスネイティブ・アメリカン
1998「ムーラン」ムーラン(中国)
2009「プリンセスと魔法のキス」ティアナ(黒人)
2010「塔の上のラプンツェルラプンツェル
2012「メリダとおそろしの森メリダ

実のところ、ディズニーはキャラクターの人種設定や人種差別的な描写について長らく批判されてきた。プリンセスも当初は白人ばかりで、非白人のプリンセスは1992年『アラジン』のジャスミンが初となる。次はネイティブ・アメリカンの『ポカホンタス』、その次は中国人の『ムーラン』とマイノリティ・プリンセスが続く。

しかし『アラジン』と『ムーラン』は外国が舞台。作品の質とは別次元の問題として、「アメリカのマイノリティの中の多数派であるアフリカン・アメリカンのプリンセスをなぜ作らない?」という声が上がった。「白人が “エキゾチック” な物語を観たくなっただけだろう」と揶揄する声もあった。

そうこうして2009年にようやくアメリカ黒人のプリンセス、ティアナが主人公の『プリンセスと魔法のキス』が公開されるや、全米のアフリカン・アメリカンの母娘が大喜びしたことは言うまでもない。子どもたちにとってプリンセスやヒーロー/ヒロインは自分自身の投影であり、人種と外観が多彩なアメリカではそれぞれの子どもにそれぞれのヒーロー/ヒロインが必要なのである。

ポリネシアのプリンセス

黒人のティアナに続いて登場したのが、ご存知、世界中で爆発的ヒットとなった2013年『アナと雪の女王』のエルサである。以後、全米のハロウィーンの仮装はエルサだらけとなった。白人も黒人もラティーノもアジア系も、女の子たちはとにもかくにもエルサに憧れた。

そして今回の『モアナ』はディズニー史上初のポリネシアのプリンセスである。ポリネシアとは太平洋上でハワイ、イースター島ニュージーランドを3つの頂点とする三角形の海域だ。

(注:2002年の『リロ・アンド・スティッチ』はハワイを舞台としているが、リロは「ディズニー・プリンセス」に含まれていない)

制作者は太平洋の島々に長期滞在し、ポリネシアの歴史と文化をリサーチしたと言う。主役モナアの吹き替えにはハワイ出身のアウリィ・クラヴァーリョを抜擢。マイノリティの役を白人に演じさせる“ホワイト・ウォッシュ”を避けた結果、クラヴァーリョと、やはりポリネシアの血を引くドウェインの吹き替えによる魅力溢れる仕上がりとなっている。

また、モアナは “ぽっちゃり” でもある。特に手足がアップになると明確に分かる。これまでのディズニー・プリンセスとの大きな違いだ。近年の「女性が皆、モデル体型なわけではない」という方向性に則しているのだろうか。

このように『モアナと伝説の海』は少女の強さを軸に、非常に優れた映像によってポリネシア大自然と文化歴史を紹介し、アクションとコメディも存分に堪能できる作品だ。百聞は一見にしかず。日米ポスターの描写にかかわらず、ぜひとも劇場に足を運ぶことをお勧めしたい一作だ。