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  メディア取材を通じて思うこと【言葉というメディア】  宮脇咲良

口は禍の元。いや本当に。

先日、私の不用意な発言で長濱ねるの機嫌を損ねてしまう出来事があった。それはもう100パーセント私の非なのだけれど、どうしてこんなことを言ってしまうのかな、と少し頭を冷やして考えてみた。

職業病なのかもしれないが、こういうものはトラブルとして考えてしまうわけで、そうなると、どうにか今後このようなこと(同じようなこと)が起こらないようにできないかという思考になる(完全に防げるものではないものだとしても)。それが再発防止ということであって、それとイコールではないものの、「何故そのようなことが起きたのか?」という原因を追究することはその策を検討するための一助になると考えている。まあそんな御託はどうでもいいとして。

さて、私が考えた限り、結論から言えば、その原因は2つあるように思う。

1つは、配慮の無さ。

妻に対して配慮が足りていなかったことが挙げられる。私と妻は出会ったのが10年以上前になるし、結婚してからも10年弱は経っている。人と比べたことはないけれど、関係は割と悪くないほうだと思っている。妻も仕事をしているが、可能なら休日も合わせて一緒に遊びに行ったりしたいと考えている。休みがあっても、私一人で過ごすというのはあまり無い。また、このご時世、お互い家で仕事をする機会も増えて、妻と一緒に過ごす時間自体も大幅に増えた。それでも一緒に居ることは苦痛ではないので、ストレスは感じていない。

「おひとりさま」なんて言葉、ネガティブなことしか想像できないよ。
「おひとりさま」向けのビジネスなんてやるだけ無駄じゃない?
「ひとりとひとり」なんて、どんな宗教?(笑)

しかし、それはあくまで私の目線。妻は別に休みを合わせたいと思っているわけではないかもしれない。休みは一人でどこかフラッと出掛けたいこともあるだろう。一緒に居ることがストレスに感じている可能性もある。ただ、だからと言って、私は強制するつもりもないし、妻がそうしたいのであれば止めたいと思わない。

その上でだ。仮に妻はそこまで私と一緒に居たいと思わなかったとして、私のほうは、やはり少々のびのびとしすぎていたように思うのだ。

どういうことかと言うと、「妻と一緒に居ること」があまりに自然で、当たり前で、心地良くて、心が安定した状態になっているために、私は妻に対して配慮が欠けてしまっているのかもしれないということだ。

「きっと許してくれる」「受け入れてくれる」「嫌われるわけがない」そんな自分本位な思いが、心遣いを欠いた発言に繋がっている可能性が高い。

これは本当にマズい。

あまり書くと読者の方がドン引きするだろうと思うので書くことに抵抗はあるのだが、正直、妻の居ない人生など私は考えられない。ここまで心を開くことのできる存在は、妻以外、今後この先の人生で現れるとは思えないのだ。そして、妻ほど、賢く、優しく、一緒に笑いあえて楽しくて、心安らげる人も、少なくとも私は、今まで他に出会ったことがない。だから、今の私にとって妻は、生きがいと言ってしまうとトンでもなく気持ち悪いが、死ぬまで一緒に居たいと思える人なのだ。どう?引くでしょ。

恥を覚悟で書いてみたけれど、それほど大事な人なわけだけれど、それを不用意な発言で傷つけてしまっている。そのような状況であれば、普通に考えて、いつ妻が私を嫌って、離れていくかも分からない。そもそも、私は「人と人とは結局のところ分かり合えるはずはないのだ」という非常にネガティブな思想を持っているはずなのに、それを頭で分かっているはずなのに、ついそのような配慮の無いことを言ってしまう。きっと妻が私のもとを離れてしまったら、私は死ぬほど後悔するだろうに。

要するに、そのような事態は避けたい。だから、今から改善するのだ。「テコンダー朴」に出てた人だ

そこで大事な教訓は「親しき仲にも礼儀あり」だ。これがなっていなかったのだ。手遅れになる前に、改善しないといけない。

で、それと、原因と思われるもう1つのこと。

もう1つは、無思考。

どうして思いやりの無いことを言ってしまうのか。いかに妻を大事に思って接していたとしても、なんとなく、言葉というものが独り歩きというか、勝手に飛び出してしまっているような気がするのだ。

どういうことかというと、そういう心無い発言をする際、きっと私は「頭で考えていない」のだ。

上に挙げたことと少し通じるのだが、こういう生活になってから、あまり人と会話をする機会が無い。喋る際に「言葉」というものを、きちんと使っていないのだ。

仕事上でのコミュニケーションは、ほとんどがメールかチャット。そこでは頭で考えて、テキストを打つ。失礼にあたらないか、こっちの要求ばかり主張していないか、相手の意図を把握できているか、十分に考えてから言葉に表す。スピードが求められる場面でも、ある程度は推敲するのでそこまで配慮に欠けた表現にはなっていない(と私は思っている)。

他方で、口頭でのコミュニケーションは家庭内ばかりになっていて、そこでは推敲というか熟考はしていない。

妻や子供は、(少なくとも私にとっては)100%心を許せる存在で、好きなことを言える。もちろん、好きなこととはいえ、非人道的な発言はしたくないし、していないつもりだ。あくまで「思いのままに、思ったことを言っていい」という、言わば「心理的安全性」の非常に高い空間で発せられる言葉なのだ。それらは、自由である分、正確ではないことも多い。自由である分、綺麗ではないことも多い。

要するに、日常の中で私の発言のほとんどが「頭できちんと考えて」というプロセスをすっ飛ばしたものであることが多いのだ。それは、心置きなくとか、フランクとか、そういうプラスの側面ももちろんあるけれど、あまりにその面が強すぎると、つい「言葉」というものの重さとか、鋭さとか、強さ、みたいなものが無視されがちになってしまうのだ。こと発言者にとっては。

だから、言ったほうがそう思っていなかったり、そういう意図ではなかったとしても、言われた方には誤って伝わってしまう可能性が高い。頭で考えて発せられたものではないために、あまりにストレートになってしまって、とても raw なもので、受け取るほうは咀嚼が難しかったりするのだ。常にそうすべきとは思わないが、オブラートに包むというのは、相手に対しての心遣いという側面もあったりする。「親しき仲にも礼儀あり」ということも、それに近しいと私は思う。

もちろん、気の置けない相手にも常に慎重になる必要はないとは思うが、それは相手に対して無礼・非礼な態度や言動で接していいということでは決してないと思う。

「頭できちんと考える」というプロセスを抜かしているために、「こんなことを言ったら、言われた相手のほうはどう思うかな」という想像力が欠けている。だから、そのような不用意な発言になってしまう。

じゃあ考えよう。言葉をしっかり使おう。意味を、それによって波及する影響を、ちょっと考えないといけない。そのうえで、使わないと、思わぬ凶器になりかねない。

そういう再発防止というか、原因追及をしてみた。


ここからは、雑談というか、雑記で。

今読んでいる仕事関係の本で「メディア」について記載されていた。

それによれば、メディアを使う場面は大きく分けて以下の3つとのこと。

1.表現する
2.伝達する
3.記録する

1.表現は、表現手段として。たとえば、文字とか音声とか、動画とか、そういった表現手段としての「メディア」というものだ。自分の思いや考えを表現するためのツールということだ。

2.伝達は、伝達や通信するための媒体として。たとえば、手紙、電話、新聞、テレビ、ラジオ、インターネット。チャットやメールなども。あくまで物理的(もしくは概念的な)な伝達手段、コミュニケーションだ。

3.記録は、情報の保持や蓄積、記録のため。ノート、メモ、CDやDVD、BD、ハードディスクとかフラッシュメモリとか。より物理的で、情報を保管しておくための入れ物だったり、箱だったり、場所なわけだ。

私は普段、情報システム関係の業務に携わっていて、なるほどそういった区分けで考えたことはなかったが、こと「データ」ということを考えた時に、当たり前のように上記のものを使い分けているつもりでいた。

同僚や顧客と意思疎通する際のツールもそうだし、システムで処理するデータの保管先ストレージをどうするかとか、仕様を説明する際のベストな手段は口頭なのかな、それとも資料に落としたほうが良いかな、とか。そういう「メディア」について、結構上手に使い分けているつもりでいたのだ。

しかし、それは仕事に限った話ではないのでは?ということを思った。

つまり、上記で触れたような私の妻に対する「不用意な発言」は、きちんと「言葉」というものを「メディア」として捉えていなかったことが原因なのではないか、と。

コンピュータの世界では、上記メディアは重要で、というか、そもそも、通信手段・媒体として正しい選択肢をとらなければ、正しく動作はしないのだ。

どういうことかというと、送信元と受信先があって、何かの情報を伝達したいとする。まずは、送信元から情報を発信するわけだけれど、もし受信先に至るまでの間で、何か中継する装置があった場合、その中継器が正しく情報を受信する必要がある。もし、何らかの事情でそのままでは受信先が受け取れない場合は、その中継器が解釈したり加工したりしてあげる。そうなると、正しい変換の形式をしてあげないといけないのだ。最終的に、受信先が受け取れるように、その過程できちんと形式を合わせてあげる。それこそ、そのために「メディア」を正しく選択する必要があるのだ。

人と人とのコミュニケーションも同じ。

相手が受け取れるような「形式」は何か。それをきちんと考えて発信してあげなければ、相手が誤った形で受け取ったり、正しく到達しない可能性も高い。想いが伝わらないというのは、お互いの意思自体が合致しないことも当然あろうが、そもそも過程や形式が異なることが原因ということもあるだろう。

「そんなつもりじゃなかったのに・・」
となるまえに、ちゃんと頭で考えて、正しく言葉という「メディア」を選ばないといけない。

私たちが活動をはじめた2018年当時の、周囲の反応はこんな感じのものが多かったですね。

共感して力を貸してくれる人も、ちゃんと話を聞いてくれる人も、とても少なかった。もちろん、これは当法人のミッションやビジョンを言語化できていなかったことも大きな原因のひとつなので、我々の責任ではありますね。

しかし、私たちは「おひとりさま」の課題解決こそ、多くの社会課題解決のための重要な「糸口」であり、かつ「本質」であると確信していました。

コロナ禍となり、想像よりも、予定よりもはるかに早いタイミングで、「おひとりさまの時代」が到来。その結果を受けて、施策をいわば「前倒し」するカタチで誕生させたのが「おひとりさま検定試験(R)」でした。

と、ここまでは以前にも似たようなことを書いたこともありますが、あらためて経緯を書かせていただきました。

「おひとりさま向け」の活動を始めた当初から「取材をさせてほしい」という依頼はありました。当初は、Webメディアや業界誌・専門誌からの取材依頼でしたね。

最初は「なんか変わった活動をしてる連中がいる」程度の関心だったかもしれません。

インタビューというかヒアリングというか何度もやりとりさせていただいて、いざ記事が掲載されると、微妙にずれが生じていたり、こちらの伝えたい大事なことが抜けていたりと、もどかしいことが続いたように記憶しています。

やはり、「おひとりさま」への書き手の思い込み、先入観や固定観念があったのだと思います。

もちろん、メディア側からの依頼で、こちらから寄稿させていただいた記事は、ちゃんと伝えたいことを伝えることができましたが…。

その後、こちらの活動が徐々に知られるようになってからは、大きなメディアからの取材依頼も届くようになりました。

代表的なところを時系列であげていくと、こんな感じ。

2021年2月22日、朝日新聞全国版の著名なコラム「ひと」欄に、代表理事・廣川のインタビュー記事が掲載されました。

そんなことを思った。おわり。

※追記。妻にはめちゃくちゃ謝りました。許してもらえたかな…。