目黒寄生虫館

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日本日記  2022年9月 €$

ヒオカ/1995年生まれ。地方の貧困家庭で育つ。noteで公開した自身の体験「私が“普通"と違った50のこと――貧困とは、選択肢が持てないということ」が話題を呼び、ライターの道へ。“無いものにされる痛みに想像力を"をモットーに、弱者の声を可視化する取材・執筆活動を行い、若手論客として、新聞、テレビ、ラジオにも出演

私の父親は、私が生まれた後、働けなくなった。それまでは正社員で、それなりに収入を得ていたという。ところが、第二子である私が生まれた後、我が家は一気に困窮したのだ。

このように子どもが生まれてから、たとえば事故や怪我、障害、病気などで働けなくなることは、誰にでも考えられることだろう。そして、親が経済的に安定しない中、予期せぬ妊娠などで生まれてくることだってあるだろう。

「貧困なら子どもを生むな」と言っても、きっと生い立ちゆえに様々な困難を背負う子どもはいなくならない。本当は生まれてくるべきじゃなかったなんて言葉に、生い立ちを選べない子どもはさらに追い詰められる。どんな状況で生まれても、衣食住・教育・医療といった最低限の生活が守られる社会にすることが大切だと私は思う。

 

<なぜそんなことを言ってくるのか。貧困家庭の子は「生まれてきてはいけなかった」存在で、進学やあらゆる人生の選択肢をあきらめなくてはならないのか。貧困家庭出身の女性ライターが「可視化したい」ものとは>

貧困をテーマにした記事が公開されると、多くの人から理解を得られる一方で、目も当てられないようなコメントがたくさん付く。しかし、無理解の根源は、悪意よりも、単にごく身近に困窮している人がいないことからくる無知にあるのかもしれない。
 

地方の貧困家庭に生まれ育ち、現在はライターとして活躍するヒオカ氏が、初の著書アイドル2.0(CCCメディアハウス)を出版した。

制服が買えなかったこと、1円の中古で買った参考書で独学し大学受験に挑んだこと、大学に入ってからもパソコンを買えず、劣悪な環境のシェアハウスを転々とせざるを得なかったことなど、個人の半生を通して見えてきた社会をエッセイ仕立てで書いた。

「貧しければ部活動や習いごと、進学が制限されるのは当たり前だ」。時にそんな言葉を投げつけられながらも、ヒオカ氏はなぜ書き、発信を続けるのか。

貧困家庭の子である私は生まれてきてはいけなかったのか?

「貧乏なら子どもを生むな」
「ちゃんと親が働かないからそうなるんだろう」
「この人の体験を、貧困なら子どもを生むなという啓蒙に使おう」

私が貧困家庭で育った体験について書く度、こんなDMが送られてくる。その度に、なぜ、子どもの立場である私に、わざわざそんなことを言ってくるのだろう、と複雑な気持ちになる。あまりに何度も言われると、遠回しに、生まれてくるべきではなかった存在なのだ、と言われているような気さえしてくる。

「(子どもを)生んじゃいけない人が生んだから、そんなことになるんでしょう」

これもまた、本当によく言われる言葉である。

子どもが生まれてくる環境は、できるならば整っていたほうがいいだろう。養子縁組や里親制度で親となる人の適性や養育環境が見られるように、本来、子どもが生まれ育つための最低限の条件はあるべきなのかもしれない。しかし、予測不可能なことは起こりうる。

私の父親は、私が生まれた後、働けなくなった。それまでは正社員で、それなりに収入を得ていたという。ところが、第二子である私が生まれた後、我が家は一気に困窮したのだ。

このように子どもが生まれてから、たとえば事故や怪我、障害、病気などで働けなくなることは、誰にでも考えられることだろう。そして、親が経済的に安定しない中、予期せぬ妊娠などで生まれてくることだってあるだろう。

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「貧困なら子どもを生むな」と言っても、きっと生い立ちゆえに様々な困難を背負う子どもはいなくならない。本当は生まれてくるべきじゃなかったなんて言葉に、生い立ちを選べない子どもはさらに追い詰められる。どんな状況で生まれても、衣食住・教育・医療といった最低限の生活が守られる社会にすることが大切だと私は思う。

貧困への無理解は悪意よりも無知から起きる

ライターとして様々なテーマで執筆し、発信するようになった。すると、読者からとても目をあてられないような悪辣な言葉が大量に吹き出すテーマと、そんなに悪いことを言われないテーマがあることに気付くようになる。

貧困というテーマは間違いなく前者である。
貧困は思ったより理解されていない。

当事者の声を発信する度、「自業自得」「同情できない」といった感想が散見される。でも私は、それらの意見に悪意を感じるというより、単純に「知らない」という要素がすごく大きいように感じている。

貧困に限らず、無理解は無知からくることが多い。私たちが日頃関わる人は、社会全体の縮図ではなく、実は社会の中でいうと、ほんのごく一部を抽出したものだったりする。

私立の中高一貫校に行けば同じくらいの所得の家庭が集まっているし、大学に行けばそこは既に世の中の半分の世界なのだ(大学の進学率は約50%で推移している)。まったく違う世界を知らずに大人になり、老いていくことが可能な世の中なのである。

私は「越境」した人なのかもしれない。元々住んでいたのは最貧困層が集う団地だった。そこに住んでいた子どもたちはみな中卒か高卒で働いた。

中学までは色んなバックグラウンドの子が混ざり合った環境だった。しかし、高校で進学校に進み、大学に行くと、周囲は中流以上の家庭出身の子ばかりになった。

自分は裕福じゃないよ、という友人の話を聞くと、「大学卒業まで一度もアルバイトをしたことがない」「習いごとをたくさんしていた」「私立の中高一貫校出身」といったバックグラウンドだったりする。そして大抵そういう人たちは「自分のバックグラウンドは中流以下」という認識だったりする。社会全体ではなく、視界に入る自分と似たようなバックグラウンドの中で比較をするからだろう。

服に穴が開いているのはズボラなせいではない

そんな"ネイティブ強者"と触れる中で、様々なすれ違いが生じることがある。たとえば、先日こんな会話があった。

「ヒオカさんの両親、仕事なにしてるの?」
「フリーターです」
「ヒオカさんじゃなくて、親御さんのことだよ?」
「はい、だから、親がフリーターです」
「えっ......」

相手はしばらく絶句していた。そんなに驚くこと?と、私も驚いた。相手からすれば子どもがいる人は定職に就いているだろう、という前提があって、それに当てはまらない存在はとても特殊なものとして映るのだろう。

「なんかいつも大変そうだよね(笑)」
「なぜ、一人暮らししないの?」
「なんでパソコンくらい買えないの?」

そんなことを言われる度、言葉に詰まった。一から事情を説明してもめんどくさいと思われそうだし、かと言って、相手が納得しそうな端的な言葉も思いつかない。

長年の友人に、大人になって初めて自分のバックグラウンドを話したことがある。すると友人は驚き、「ズボラなだけだと思ってた、命を燃やしていたのに」と言った。その友人には、靴や服など、穴があくまで着ていたことをよくイジられていた。身なりに無頓着ゆえに、買い替えないだけだと思われていたらしい。

外出自粛の呼びかけにある「家は安全な場所」という前提

「見えている景色の違い」を感じる場面は、生活のいたるところにある。

たとえば、コロナ禍での「ステイホーム」の呼びかけ。もちろん感染対策として外出を控えてもらうことは大事なことだろう。しかし、図書館の閉館のニュースを聞き、胸がとてもざわついた。家にエアコンがない、虐待や夫婦喧嘩が絶えず家にいられないという子どもにとって、公共の施設は居場所となりうる。

「家が安全であるという前提」があってこそ、ステイホームは成り立つ。

ステイホームの渦中、大学ではオンライン授業になり、校内への立ち入りが禁止になった時期もあったそうだ。しかし、そもそもネット環境がない、パソコンを買えないから持っていない、一人になれる空間がない。そんな大学生だっているはずだ。しかし、そういう人たちの存在は想定すらされていないのである。

「買い物は投票」というメッセージをSNSで何度も見ることがあった。ファストファッションなど安い製品は、その生産工程に搾取が潜んでいることが多いから、買うのは控えよう、というものだった。企業理念に賛同できないから、その会社の製品を買わない、という選択肢をとる人もいる。

もちろん、個人の心がけならばどうぞご自由にといったところだろう。しかし、ファストファッションを買う人や、自分の理念と合わない会社の製品を買う人を非難したり馬鹿にしたりする人まで現れた。

購買を決める要因を「理念」に委ねるのは、ある程度の経済力があってはじめてできることだ。とにかく安いものを、1円でも安くという姿勢が非難されるとき、「切り詰めないと生活が崩壊する」人たちの存在は視界に入っていないのだろう。

個人に見えている世界はそれぞれであり、すべてではない

同じ世界で同じ時を生きていても、見えている景色はまるで違う。相手の置かれている状況が見えなければ事情を慮ることもできない。そして時に誤解や摩擦、軋轢が生じてしまう。

見えている景色が違うが故に生じる軋轢で、深刻なものがあった。コロナで困窮する人々に、

「普段から備えておかないからそうなるんだ」
「YouTuber?そんな不安定な仕事に就くからいけないんだ」

そんな言葉を投げかける人が散見された。

日頃から貯金ができる収入を得られ、リモートワークに対応してくれる規模の会社に勤めている人には、少しでも休めば生活が脅かされ、非常事態でも出勤し続けなければならない人たちの存在は、視界に入っていないのかもしれない。

自分の想像が及ばない属性に対し、人はどこまでも冷酷になる。簡単に「自業自得」「支援に公金を使うべきでない」といったジャッジを下してしまう。

貧困家庭への支援に対するバッシングも、本当に根強いものがある。

<なぜそんなことを言ってくるのか。貧困家庭の子は「生まれてきてはいけなかった」存在で、進学やあらゆる人生の選択肢をあきらめなくてはならないのか。貧困家庭出身の女性ライターが「可視化したい」ものとは>

貧困をテーマにした記事が公開されると、多くの人から理解を得られる一方で、目も当てられないようなコメントがたくさん付く。しかし、無理解の根源は、悪意よりも、単にごく身近に困窮している人がいないことからくる無知にあるのかもしれない。
 

地方の貧困家庭に生まれ育ち、現在はライターとして活躍するヒオカ氏が、初の著書アイドル2.0(CCCメディアハウス)を出版した。

制服が買えなかったこと、1円の中古で買った参考書で独学し大学受験に挑んだこと、大学に入ってからもパソコンを買えず、劣悪な環境のシェアハウスを転々とせざるを得なかったことなど、個人の半生を通して見えてきた社会をエッセイ仕立てで書いた。

「貧しければ部活動や習いごと、進学が制限されるのは当たり前だ」。時にそんな言葉を投げつけられながらも、ヒオカ氏はなぜ書き、発信を続けるのか。

貧困家庭の子である私は生まれてきてはいけなかったのか?

「貧乏なら子どもを生むな」
「ちゃんと親が働かないからそうなるんだろう」
「この人の体験を、貧困なら子どもを生むなという啓蒙に使おう」

私が貧困家庭で育った体験について書く度、こんなDMが送られてくる。その度に、なぜ、子どもの立場である私に、わざわざそんなことを言ってくるのだろう、と複雑な気持ちになる。あまりに何度も言われると、遠回しに、生まれてくるべきではなかった存在なのだ、と言われているような気さえしてくる。

「(子どもを)生んじゃいけない人が生んだから、そんなことになるんでしょう」

これもまた、本当によく言われる言葉である。

子どもが生まれてくる環境は、できるならば整っていたほうがいいだろう。養子縁組や里親制度で親となる人の適性や養育環境が見られるように、本来、子どもが生まれ育つための最低限の条件はあるべきなのかもしれない。しかし、予測不可能なことは起こりうる。