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性差は無くすべきなのか?「男か女か」という二分法の必然 『ジェンダーと脳』批判

 

イスラエル神経科学者ダフナ・ジョエルが提唱する「モザイク脳」という考え方を受けて、性差について次のように考えるべきだ、と述べた。

・性差とは「具体的な性質ごとに観察される男女比の偏り」のこと
・「男性はち○ち○で、女性はま△△で考える」というように人間を主体にして捉えるよりも、「○○な人には男性が多い」「△△な人には女性が多い」というように、性質の側を主体にして捉えるのが性差というものの正確な理解

 さらに第28回で以下のようにも述べた。 

 ある性質について男女比の偏りが見られる場合、その理由として

① 脳の生得的な男女差の反映(Aの特徴を示す人はもともと男性に多く、Bの特徴を示す人はもともと女性に多い、というように)
② 「男性は○○で女性は△△」あるいは「男性は○○でなければならない、女性は△△でなければならない」といったジェンダーバイアスの影響

の2つが考えられるが、おそらくほとんどの性差は ① と ② の両方、つまり生得的な男女差が文化的に強化・増幅されることによってもたらされているのだろう。  

 ジェンダー論やフェミニズム系の論者は ② を警戒する一方で、① の可能性には触れないか、触れても認めたがらない傾向にある。なかにはこの「生得的な男女差」の存在を認める論者もいるだろうが、おそらくそういう人も「生まれつきの性差はあるにしても、それが文化的に強められる傾向はできる限り解消し、人々が性別という枠組みに捉われない社会にしていくべきだ」と主張するのではないかと思う。

 これは一見、良い考えのように思えるし実際そうすることで生きやすくなる人もたくさんいるだろう。私も部分的には賛成である。しかし一方で私は、こうした考えを手放しで肯定する気にはなれないのだ。

 どうしてか? 人間が有性生殖をする生き物だからだ。現在のところ、私たちは最新の科学技術をもってしても人間をゼロから作りだすことができない。これだけテクノロジーが発達した?21世紀の今もなお、人間は基本的には男女がセックスすることでしか新しい命を生み出すことができないのだ。(一部の特殊な環境を除外しています)

 数十年後の未来には対外受精と人工子宮を組み合わせて性行為を介さずに(どころか母体すら介さずに)子供を作る技術が確立されるのでは、という予測もあろう。しかし今のところ実現の目途は立っていないようだし、実現したとしても、そうした技術が広く社会に普及するまでにはさらに数十年の時間を要するだろう。私たちは今後も当分の間、男女間の性行為を通してしか子供を作れない、という生き物としての宿命から抜け出せないのだ。

 しかも、人間は意外と妊娠しにくい生き物である。

若い夫婦が、とくに避妊などをせず性交渉を繰り返していても、一度の排卵期に妊娠する確率は30パーセントほどに過ぎないとされる。また、結婚して二年間もそうやって性交渉を重ねているのに妊娠しない場合に、はじめて不妊症だと判断される。つまり、裏を返せば、二年くらい妊娠しないのはよくあることなのだ〈1〉。

(ヒトの近縁種であるチンパンジーも同様で、一度の妊娠のために1000回近くもの交尾が必要だという〈1〉)。

 身も蓋もない言い方をすれば、社会が一定の人口規模を維持していくためには多くの男女が(子を持つつもりで)何度も性行為をする必要がある。一夫一妻を原則とする現代社会ではこれは特定の男女同士の継続的な関係の中で行われるのが望ましいだろう。

 そのためには、なるべく大勢の男女が互いに「異性として」魅力を感じ、惹かれ合い、カップルになる必要がある。
 人間的な魅力と性的な魅力は(重なる面もあるとは思うが)必ずしも一致するわけではない。男女が性的な関係を持つには、互いを「人として良いと思う」だけでは足りず「異性として魅力的である」と感じる必要がある。そして、それを促進するにはやはり一定程度、男女の文化的な差異が必要なのではないか、というのが私の考えである。言い換えれば、「男らしさ」や「女らしさ」という観念がゆるやかにでも社会の中で維持されていた方がよいと思うのである。

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 これまで述べてきたとおり、私はダフナ・ジョエルの「モザイク脳」論を基本的に支持しているのだが、こうした「『男性性』や『女性性』についてどう考えるか」という点ではジョエルとは立場が全く異なる。

 ダフナ・ジョエルの著書『ジェンダーと脳』、前半にあたる第1部と第2部ではこれまでとりあげてきた「モザイク脳」論について詳しく解説されており、ここまではよい。だが後半にあたる第3部と第4部では「ジェンダーというのは幻想であり、だからジェンダーのない世界を目指すべき」というラディカルな主張が展開され、読み進むにつれて「いや、そこまではついていけない… 」という気持ちが強くなる。

 人は男性も女性も個人ごとに多様な内面を持っているので、「男性(女性)はこういうもの」とか「男性(女性)はこうでなくてはならない」という固定観念に捉われない社会にしよう、というのであればまあ理解できる。実際、ジョエルはそうした内容のことも書いており部分的には同意できる箇所もある。
 しかし、ジョエルはそう主張するだけにとどまらず、彼女の言う「ジェンダーバイナリーという二分法」、つまり人を男性と女性という二つの集団に分ける発想そのものを否定するのだ。

ここ数十年にわたって行われてきた研究は、私の研究も含めて、人間は心理学的な特徴において各自が大きく異なるし、人間の本質は二つのうちどちら か、つまり女性か男性かという枠組みではとらえ切れないということを示している。そう遠くない未来、このような考えが当たり前となって、ジェンダー研究が歴史の講義になり、ジェンダーの話題が出たら、子どもたちが両親(または 祖父母)になぜ昔の人は人間を生殖器によって分類したのかと尋ねるようになっていればと願う〈1〉。

ジェンダーのない世界では、性のカテゴリーそのものが重要性を失う。社会的な意義がないのであれば、ある人の生殖器の形態は重要ではない〈2〉。

子どもの学びは男性と女性という二つの異なるタイプに分けられない。(中略)各人のニーズに応えられるよう学校の教育法に柔軟性を持たせ、子ども たちが男らしい技能や女らしい技能を自由に伸ばせる環境を提供するのだ。というより、いつの日か、「男らしい」とか「女らしい」とかいう言葉を使わなくなるのが理想と言えよう〈3〉。

私が思い描く未来に男性や女性はいない。いるのは、女性、男性、あるいは 間性の生殖器を持つ人だけだ。この未来像では、性別は身長、体重、年齢、 眼の色などと同じく、身体的特徴を表す言葉の一つに過ぎない。そして、この言葉は人をグループ分けして、グループごとに違う扱いをするために使わ れることはない〈4〉。

 特に違和感を覚える箇所を抜き出してみたのだが、これらの記述も含めて本書の後半を読む限り、ジョエルには「生殖」とか「人口の再生産」という観点が欠けているように思われる(わずかながら一応触れている箇所もあるのだが、あまり真剣に考えているようには思えない)。

 なぜ社会は人間を生殖器によって分類しているのか? 前回と同じことを言わなくてはならない。究極的な理由はこうであろう。人間が有性生殖をする生き物だからだ。
 たしかにジョエルの言う通り、人は誰もが内面においては男性的な特徴と女性的な特徴を併せ持っているのが普通であり、男女の心理的な差異というのは、これまで考えられていたより曖昧で流動的なものなのかもしれない。

 しかしそう言ってみたところで、結局人間は男性の生殖機能を持つ人と女性の生殖機能を持つ人の間でしか子供を作ることができないのだ。前回述べた通り、ヒトはこの生き物としての制約から当分の間逃れることができないだろう。その意味で、性別という区分には「身長が160cmなのか180cmなのか」とか「目の色が黒なのか青なのか」といった区分とは全く違う重みがある。

 世界中のあらゆる社会が文化の根底に男女の区別を置いているのはそのためであろう。どの社会も人を基本的には男か女かの2種類に分け、その上でそれぞれの性にふさわしいとされる服装や髪型や装飾品、言葉遣い、振る舞い、行動様式、役割といったものを規定している(伝統社会はそれが特に顕著である)。

 これら一連の「らしさ」は、それになじめない人にとっては抑圧的に働くという負の側面があるし、私だって現代において全ての人が何から何までそれに従うべきだとは思わない。しかし、かといってこれらを完全に消し去り、男女の文化的な差異をゼロにして良いとも思えない。
 これらの慣習や規範やイメージには、男性の身体を持つ人と女性の身体を持つ人それぞれに「自分は男である」とか「自分は女である」というアイデンティティの形成を促すとともに、異性に対しての(幻想も込みでの)欲望を強化させ、生殖活動を活発化させる機能があるのだと思う。

 人間が男性と女性の間でしか子供を作ることができない以上、我々は「男か女か」という二分法から完全に自由にはなれないし、その二分法を文化的に強める営みを捨て去ることもできないのではないだろうか