仕事で煮詰まった時、気持ちが沈んだ時…藤子(A)さんが初心に戻れた「手塚先生の生原稿」
今年4月に死去した藤子不二雄(A)さんの仕事場に、手塚治虫の未発表原稿が保存されていた。その中には、「まんが道」に印象的に登場する、あの1ページも含まれていた。(編集委員 石田汗太)
昭和26年(1951年)ごろ、富山県の
<中から出てきたのは、なんと手塚先生の生原稿の1ページだった!>
藤子(A)さんと藤子・F・不二雄さんがモデルの満賀道雄と才野茂は、その前に兵庫県宝塚市で、初めて憧れの手塚に会い、プロになることを改めて誓い合っていた。生原稿は、2人への手塚からの贈り物だった。
<それにしても、なんとすばらしいペンタッチだろう!>
その原稿を、藤子(A)さんは大切に保存していた。手塚プロダクション資料室の調査でも作品名は判明せず、「未発表原稿の一部である可能性が高い」(同資料室の田中創さん)という。
「『線が、光っているんだ』。おじは、手塚先生の原稿を見ながら、いつもそう言っていました」
藤子(A)さんのめいで、秘書も務めた松野いづみさん(63)は振り返る。藤子(A)さんの自宅書斎の箱にしまわれていた手塚原稿を、仕事場で見やすいようにと、1冊のファイルに整理したのは松野さんだったという。
「おじは、『まんが道』を描くために、いつもこのファイルをそばに置いていた。仕事のアイデアに詰まった時や、気持ちが沈んだ時、手塚先生の原稿を見て、初心に戻っていたようです。『大事なものなので、いつかお返ししてほしい』とも。その遺志を果たせて、ホッとしています」
藤子(A)さんらが1954年から住んだ東京都豊島区の「トキワ荘」の部屋は、手塚が住んでいた一室で、入居も手塚の勧めだった。
「父はファンにも没原稿をあげていましたが、藤子(A)先生や藤子・F・不二雄先生に差し上げたのは、また違う意味合いだったと思う」と、手塚の長女、るみ子さん(58)。「プロとして自分の線を学んでほしい、後に続いてほしいという気持ちがあったのでしょう」
同じファイルに、手塚から2人にあてた手紙も保存されていた。昭和26年(51年)8月の消印があり、「藤子不二雄」はまだデビュー前。2人が初の合作単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」(53年、足塚不二雄名義)に苦心している頃と見られ、手塚は2人を温かく激励している。
<是非完成まで漕ぎつけて下さい。貴君達の実力は充分知っていますから>
「結果的に、お二人ともすごいライバルに成長した。それでも、父を目標と思い続けてくれた」と、るみ子さんは語る。「この原稿からは、そんな温かい師弟愛が伝わってきます」